2024年11月22日金曜日

第19回福岡市史講演会「近代都市福岡の発展と筑豊炭坑家」を開催しました!


さる10月14日(月・祝)、毎年恒例の福岡市史講演会を開催しました。

市史講演会は今回で19回目となり、毎年1回だいたい秋ごろに開催しています。


第19回福岡市史講演会のチラシ


ありがたいことに、いつも多くの方がお越しくださるのですが、今回はとくに申込みの時点で定員を大幅に超えてしまっため、やむなく抽選となってしまいました。

残念ながら落選してしまった皆さまには、せっかくお申込みいただいたにもかかわらずお断りせざるを得ない状況になってしまい、本当に申し訳ございません。


なんとか落選した方にもご覧いただけないかということで、市史講演会としては初めての試みでしたが、YouTubeでのライブ配信も行うことにし、多くの方々にご視聴いただくことができました。


開演を待つ会場の様子。



今回のテーマは「近代都市福岡の発展と筑豊炭坑家」。

大正期~昭和初期の資料を集めた『新修 福岡市史 資料編 近現代3 モダン都市への変貌』(令和6年3月刊行、以下『資料編 近現代3』)の内容にちなみ、当時の福岡の都市発展について、安川敬一郎や麻生太吉といった筑豊炭坑家たちとのかかわりから見ていくという趣旨の講演会です。



『資料編 近現代3』では、九州大学附属図書館記録資料館に寄託された膨大な「麻生家文書」のうち、「麻生太吉宛安川敬一郎書簡」をはじめ、大正前半期の福岡市長候補者選定や安川敬一郎の衆議院選挙立候補に関する資料を掲載しています。


そのご縁で、今回の市史講演会は同館との共催という形で行い、会場も西新の樋井川沿いにある「九州大学西新プラザ」(早良区西新2丁目16-23)での開催となりました。


樋井川沿いに建つ九州大学西新プラザは、
九州大学創立80周年記念事業の一環として
平成13年に建てられた施設です。



今回のプログラムは次のとおり。

講演1本と報告2本、そして講師そろってのシンポジウムという3部構成です。


[講演]
遠城 明雄 先生
(九州大学大学院 教授/福岡市史編集委員会 近現代専門部会副部会長)
「福岡市の都市発展と市政の展開」


[報告]
日比野 利信 先生
(北九州市立自然史・歴史博物館 学芸員/福岡市史編集委員会 近現代専門部会専門委員)
「安川敬一郎と福岡市」


原口 大輔 先生
(九州大学附属図書館付設記録資料館 准教授)
「麻生太吉と福岡市」


[シンポジウム]
パネラー:遠城明雄先生・日比野利信先生・原口大輔先生
コーディネーター:有馬 学 先生(九州大学名誉教授/福岡市史編集委員会 委員長)




開催にあたっては、まずは記録資料館館長である井手誠之輔先生にご挨拶をいただきました。

ご挨拶いただいた井手誠之輔先生。






そしていよいよ本編がスタートです。

まず最初は、遠城明雄先生によるご講演「福岡市の都市発展と市政の展開」。


市史の編集を通して見えてきた、福岡市の都市発展(市制施行~昭和初期)の特徴を、「インフラ整備と工業化」、「近世と近代」、「中央と地方」というキーワードをもとに、講演いただきました。


遠城先生ご講演の様子。
福岡市の近代化は「社会資本の整備と工業化」がカギとのこと。




次に、日比野利信先生によるご報告「安川敬一郎と福岡市」。


安川敬一郎がどのような人物であったか、福岡市にどう関わったかを、生い立ちや家族関係、その後の事業展開などをふまえて、福岡市での政治的な動向はもとより、教育的、文化的な貢献についても報告していただきました。


ご発表いただいた日比野先生。
長年安川敬一郎についてご研究されており
その成果の一端をお話しいただきました。




2本目のご報告は、原口大輔先生による「麻生太吉と福岡市」。


麻生太吉は購入整備した浜の町別荘(現・中央区舞鶴3丁目付近)を拠点として、電力会社合併や製鉄会社誘致など福岡市での事業展開を計画していた一方で、同業組合の運営など政治的手腕にも高い期待が集まっていた、とのことでした。


ご報告いただいた原口先生。
記録資料館での「麻生家文書」整理事業を踏まえて
お話しいただきました。





プログラムの最後は、すでにご登壇いただいたお三方に加え、有馬学福岡市史編集委員会委員長をコーディネーターとして、ここまでの内容を総括し、さらに理解を深めるためのシンポジウムを行いました。


短い時間ではありましたが、麻生や安川が残した資料について、また近代都市の発展と現代への転換についてなど、話題は多岐にわたりました。


コーディネーターをお願いした有馬先生。


「麻生家文書は少なくとも10万点を数える膨大なもの。
段ボール箱にして1600個程度はあります」(原口)


「安川敬一郎資料は古文書だけで約1000点。
麻生に比べると少なく思えますが、膨大な資料です」(日比野)


「福岡市は工業化がなかなか進まなかった。
だからこそいろいろなものを受け入れることができて
変化しやすかったのではないでしょうか」(遠城)



最後に有馬先生から、「やっぱり歴史はとにかく1にも2にも資料ありき。資料が残っていなければ、われわれは過去を再構成できないのです。幸いにして内容豊かな大きな資料を残していただいたので、そういうものを活用しながら、多様な地域の歴史というものをこれからも掘り起こしていきたいと思います。」とのコメントがあり、シンポジウムは幕を閉じました。





ご来場くださった皆さんの中にはもともと炭坑の歴史に関心があったという方も多かったようで、皆さん熱心に先生方の話に聞き入っておられました。

筑豊炭坑家」というと北九州との関係をまず思い浮かべがちですが、今回のような福岡市の市政や経済など都市発展に深く関わっていたというお話は、新鮮な驚きだったのではないでしょうか。


ご講演ご報告くださった講師の先生方、講演会にお越しくださった皆さま、本当にありがとうございました。



なお、今回の講演会の様子は、福岡市博物館公式YouTubeチャンネルから全編ご視聴いただけます(動画はプログラムごとに分かれています)。



※ コチラをクリックすると別画面でYouTubeページが開きます。




また、来年3月に発行予定の研究誌『市史研究 ふくおか』第20号には、講演会記録として内容を掲載する予定ですので、こちらもどうぞお楽しみに!

※『市史研究 ふくおか』は福岡県内をはじめとする各図書館で閲覧が可能です(非売品)。くわしくは、コチラをクリックすると『市史研究 ふくおか』についての紹介ページがご覧いただけます。






新修 福岡市史 資料編 近現代3 モダン都市への変貌』のご紹介

本書は、今回の講演会で取り上げた麻生家文書のほか、大正~昭和初期の福岡市が近代都市として成立していく足跡を示す資料群を多数掲載しています。

大正時代から昭和初期までの福岡市の政治・行政・社会の動向を中心に、今日の福岡市の出発点となった「モダン都市」への変貌を資料から浮き彫りにした一冊です。

基本的には古文書や公文書などの資料を翻刻したものですが、資料の概要をまとめた解説も載っていますので、今回の講演会で初めて福岡市の近代史に関心をもってくださった方も、よかったらぜひお手にとってみてください。


『新修 福岡市史』は、各図書館のほか、販売については福岡市博物館ミュージアムショップをはじめ、ジュンク堂書店福岡店さんや丸善博多店さんなどで購入できます。


※「資料編 近現代3」についてはコチラをクリックすると目次などの紹介ページがご覧いただけます。




(文責:鮓本・加峰)

2024年11月21日木曜日

제 36회 신수장품전 - 후쿠오카의 역사와 생활

[기간] 2024년 10월 9일~12월 22일

[장소] 기획전시실 1~4

[관람시간] 오전 9시 30분~오후 5시 30분(입관은 오후 5시까지)

[휴관일] 매주 월요일

[관람료] 일반 200(150)엔, 고등・대학생 150(100)엔, 중학생 이하 무료
           *( )안은 20인 이상의 단체 요금 및 각종 제휴 할인 요금


  후쿠오카시 박물관은 개관 7년 전(1983년) 박물관 건설 준비실을 발족한 이래, 고고학, 역사, 민속, 미술의 각 분야에 걸친 자료의 수집을 계속해 왔습니다. 기증과 기탁, 구입을 통해 모은 자료는 현재 19만 건 이상에 달합니다.


 자료를 후세에 확실하게 전함과 더불어 효율적인 전시와 연구를 위해, 우리 박물관에서는 새롭게 수장한 모든 자료들에 관해 조사와 정리를 진행한 목록을 <수장품 목록>으로 간행하고 있습니다. 또한 이러한 활동을 여러분께 널리 알리기 위한 전시회인 <신수장품전>을 개최하여 새로 들어온 자료를 직접 관람하실 수 있는 기회를 마련하고 있습니다.


 36번 째를 맞이한 이번에는 2021년도 수집 자료 2,548건 중 "후쿠오카의 역사와 생활"에 관련된 약 80건의 자료를 엄선하여, <후쿠오카의 역사와 기록>, <근현대의 후쿠오카>, <생활과 축제>, <예능과 미술>이라는 4개의 테마로 나누어 소개합니다.


1. 후쿠오카의 역사와 기록

2대 후쿠오카 번주 구로다 다다유키忠之의 측근・오고小河 가문 전래의 갑주.
투구는 복숭아 형태桃形로, 가문의 문양을 매의 깃털에 수놓은 와키다테脇立(협립) ,
태양을 그린 군센의 마에다테前立(전립)가 특징이다.
무로마치 시대 후기부터 모모야마 시대에 유행한 당세구족을 흉내낸 것.〔半田郁子자료〕

 

붉은 칠을 한 찬합. 1910년 후쿠오카시에서 개최한
제 13회 규슈 오키나와 8현 연합 공진회에 출품된 것이다.
옻을 착색하여 성형함으로써 입체적인 조형을 만드는,
퇴금堆錦이라는 오키나와의 전통적인 기법을 사용하였다.〔半田郁子자료〕
 

2. 근현대의 후쿠오카

1946년부터 이듬해 사이에 촬영한 후쿠오카 시내의 사진.
촬영자는 미군의 교육기관에서 근무했던 미국인.
종전 후의 잔해만이 남은 시가지의 모습을 볼 수 있다.
〔Gray Wright Waldorf collection〕

 

3. 생활과 축제

니시 구西区 겐카이지마玄界島에서 사용했던 가시복ハリセンボン의 박제.
〔宮川安隆자료(추가분)〕


하카타 오키아게로 만든 자화상.
오키아게おきあげ란 꽃, 새, 인물 등의 모양에 판지에 천을 입혀 입체적으로 만든 것이다.
〔小串シズノ자료(추가분)〕


4. 예능과 미술

결혼식, 차도나 꽃꽂이 등 경사로운 일에 입는 소매가 긴 기모노振り袖(후리소데).
빨간 바탕에 학, 소나무, 국화, 파도 등의 문양이 수놓아져 있다.〔五十川静子資料〕

2대 미토마 슈세이三苫主清가 에도 시대 후기에 그린 야마카사.
고대 중국 춘추 시대 월국에서 도적을 퇴치하는 것을 제재로 하여 그린 것.〔구입자료〕


 이 전시회에서는 후쿠오카의 역사와 생활에 관련된 자료를 폭넓게 전시하고 있습니다.
에도 시대 무사가 사용했던 갑주와 투구, 아름다운 서화를 비롯하여 근현대의 모습을 보여주는 다양한 자료까지 보실 수 있습니다. 또한 2020년에 타계한 후쿠오카 출신의 유명한 코미디언, 고마쓰 마사오가 생전에 사용했던 퍼펫도 처음으로 전시중입니다.

 

 전시회의 개최와 더불어, 귀중한 자료를 제공해주신 모든 여러분께 깊은 감사를 드리며, 관람하시는 여러분께도 이 전시회를 통해 후쿠오카의 역사와 사람들의 생활에 대해 한층 더 관심을 가질 수 있게끔하는 기회가 되었음 하는 동시에 후쿠오카시 박물관의 자료 수집 활동에 대한 이해와 협력을 얻으시는 기회가 되었으면 합니다.

2024年11月16日土曜日

【別冊シーサイドももち】〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。










〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~


先日、10月20日(日)の午前中、百道浜の海岸ではこのようなイベントが行われました。


\\ どすこいクリーンアップ2024 //


なんて天才的なネーミング!  そして破壊力!!

これは一度聞いたら忘れられませんよね。


こちら、日本財団と湘南・江の島で19年ビーチクリーン活動を続けられているNPO法人 海さくらさんが中心となって進めておられる「海と日本PROJECT」の一環として行われた、砂浜の清掃活動なんです。


当日は大嶽部屋のお相撲さんたちが大勢参加され、一般参加者の方々、そしてゲストのサザエさん・波平さん・海平さんと共に、シーサイドももち海浜公園百道浜エリアの海岸のビーチクリーンを実施。

この日の参加者はなんと400名にものぼったとか!


実はわたしはその日、同時刻に別のところへ取材に行っており(こちらはまた後日…)、気になりながらも残念ながら参加は叶わなかったのでした…むむむ、無念…。

サザエさん×お相撲さんが百道の浜にそろい踏みする…そんな夢のような光景が繰り広げられたこの日の百道海岸。行かれた方は幸運でしたね!(もちろん海のクリーンアップが第一目的!)

ふたたび百道で開催されることを切に祈っています。


ちなみに当日の様子は、海さくらさんのブログでたくさんの写真とともに紹介されていますので、ぜひこの夢の共演をご覧いたければと思います!(奇跡的な写真が満載です)


NPO法人 海さくら 目指せ!日本一楽しいゴミ拾い!





さてさて、ではなぜ「サザエさん×お相撲さん」の組み合わせが百道にとって夢のような組み合わせなのか??


サザエさんは言わずもがな、作者の長谷川町子先生が百道海岸でサザエさんの構想を練ったという話は有名かと思いますが、お相撲さんも百道にとっては忘れてはならない存在です。

それは、百道の海岸沿いに林立していた海の家や旅館は、昭和30年代以降は相撲部屋が毎年11月に福岡市で開催される九州場所のための宿舎として利用していたからなんです。


現在でも10月末頃からまちなかで出会うラフな恰好のお相撲さんたちの姿と鬢付け油の匂いは晩秋の福岡の風物詩ですが、かつては百道がまさにそのメッカともいえる時代があったんですね。

今まさに十一月場所真っ最中のこの時期(明日が折り返しの中日ですね)、百道とお相撲さんにまつわるあれこれをご紹介したいと思います。


* * * * * * *


九州場所のはじまりと宿舎

相撲興行は福岡でも江戸時代から行われていました。

明治時代以降は東京に国技館が建ち、そこを常設小屋として行われる東京相撲、そして大阪相撲などが中心となり、相撲興行は盛んになっていきます。

当時の相撲興行は本場所2回でしたが、本場所以外にも地方巡業が行われており、福岡にも相撲がやって来ていました。


明治時代の福岡での相撲興行は大浜町の浜、大正時代になると博多中島町新地の埋立地などを会場として、そこに仮小屋を建てて行っていたようです。

巡業の時期になると大勢の力士が来福し、この時代は市内の旅館に分宿していたそうです。


(福岡市博物館所蔵)
大正時代の絵葉書。相撲がモチーフになった菊人形です(新柳町)。


昭和になると東京の大相撲団体が統合、福岡でも「地方本場所」としてたびたび興行が行われていました。

福岡での相撲人気は高まり、西日本鉄道をはじめとした地元の有志の尽力によって、昭和30(1955)年にはこれまでの地方本場所ではなく、本場所と同様の取り組みを行う「九州準本場所」の開催が実現。

これは同年に天神に完成した「福岡スポーツ・センター」のこけら落とし興行となりました(現在のソラリアプラザの場所です)。


この流れで、さらに「準本場所を本場所に昇格させよう」という動きが財界を中心に盛り上がり(当初相撲協会は難色を示していたそうですが)、昭和31(1956)年にはついに福岡での相撲興行が大相撲本場所となることが決定しました(実際の興行は昭和32年11月~)。


(福岡市博物館所蔵)
昭和32(1957)年の大相撲九州場所の様子。
中央の建物が福岡スポーツ・センターです。



昭和30(1955)年の準本場所では、本場所と同様の取り組みが行われたため、力士たちも地方巡業の時よりも大人数、そして長期間滞在する必要があり、また部屋ごとに稽古ができる広い場所も必要となり、これまでのように旅館に投宿するというわけにはいかなくなります。

そこで、ほとんどの部屋は会場から近い市内の寺社を宿舎とするようになりました。


準本場所開催当初の宿舎

 ・立浪部屋/聖福寺(御供所町)

 ・二所一門/萬行寺(祇園町)

 ・春日野一門/日蓮聖人銅像護持教会(東公園)

 ・花籠一門/香正寺(薬院)
※ 香正寺の実際の住所は警固。



百道の海岸はお相撲銀座

当初は寺などに宿舎を構えていた各部屋ですが、それぞれの事情でその場所を変えていき、百道を宿舎とする部屋も徐々に増えていきました


それでは実際百道のどこに、どのくらいの相撲部屋の宿舎があったのでしょう?


実は相撲部屋の地方宿舎についてはまとまった形での正確な記録がほとんどありません。

それを調べるためには当時をご存知の方々の記憶や、当時発行された新聞や雑誌の記事などに頼るしかないのですが、それでもいつからいつまで、どこにどの部屋が、ということはなかなか全貌を正確に把握することは困難です。

それでも細かい記事をなるべく拾い集めて集積した結果、なんとなくですが当時の様子が分かってきました。



まずは宿舎が集まっていた場所

これは海の家や旅館を拠点にしていたということからも分かるように、各部屋の宿舎は当時の海岸線に沿うような形で並んでいました。


(地理院地図Vectorをベースに作成)
この赤い丸のエリアに宿舎が並んでいたようです。


百道に宿舎を置いたことがある部屋は全部で10部屋。もちろん同時にではありません。

同時期での最大は昭和45(1970)年前後で、この時は5つほどの部屋が百道を宿舎に選んでいて、百道は「お相撲銀座」や「相撲村」とも呼ばれていました。



こちらはそれを分かりやすくするため、地図に落としてみたものです(建物も入れ替わりがあり、やや時代が混在しているものもあります)。


(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


百道の宿舎としては「ピオネ荘」や「平戸屋」などは名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、なかにはかつて前衛美術集団・九州派がアトリエとしていた「百道屋」も相撲部屋の宿舎として利用されたことがあったんですね(九州派が使っていたのは1960年代なのでこれより少し前ですね)。


また、片男波部屋が利用していた「設備屋」は、百道海水浴場(大正7年~昭和50年)で最初期にできた古参の海の家なのですが、昭和48(1973)年に売却広告が出ていることが分かっていますので、設備屋としての最後の時期に相撲部屋を受け入れていたことが分かります(その後、西南学院が購入して跡地に研修所を建てました)。


設備屋についてはこちらの過去記事をご覧ください。



こうして見ると、二所一門(二所ノ関・花籠・放駒・二子山・片男波・高田川)と時津風一門(伊勢ノ海・鏡山・立田川)が百道を拠点としていたことがよく分かりますね。




花籠部屋とピオネ荘

百道に相撲部屋がやってきた、その最初の部屋は花籠部屋でした。

花籠部屋は、元大ノ海が二所ノ関部屋から独立する形で創設した部屋です。大ノ海は引退後に8代・芝田山を襲名して正式に芝田山部屋としてスタートしますが、その後昭和28(1953)年に10代花籠と名跡を交換して11代花籠となり、花籠部屋が誕生しました。


さきほどもご紹介したとおり、当初花籠部屋は薬院の香正寺を宿舎としていました。

花籠部屋が香正寺から百道のピオネ荘に移ったのは昭和34(1959)年

これは所属力士が増えて香正寺に入りきれなくなったためだそうですが、そんなとき花籠部屋の幕内力士だった若乃洲(わかのしま)が福岡出身で、そのお兄さんがパン屋さんを経営されており、お兄さんとピオネ荘のご主人が旧知だった関係でピオネ荘を宿舎にと紹介されたのだそうです。


花籠部屋は当時、横綱・若乃花(初代。「若貴」でお馴染み若乃花・貴乃花兄弟は甥に当たる)がおり、また若乃花を入れて当時「花籠七若」といわれた若ノ海・若三杉・若秩父・若ノ国・若駒・若天龍など将来有望な若手が活躍。若乃花引退後(二子山を襲名し二子山部屋を創設)には、大関・魁傑(のちの放駒親方)や横綱・輪島を出すなど、とても活気のある部屋でした。

また、ほかにも引退後に俳優やコメンテーターとして大活躍した龍虎が所属していたことでも有名です(余談ですが、龍虎といえば『暴れん坊将軍』よりも個人的には『料理天国』の試食係ですね~)。




百道に来た当時、花籠親方や若乃花は新しい宿舎であるピオネ荘と百道を絶賛していたようです。

まず百道という場所は環境がよく空気がきれいで、位置的にも会場(天神)からは大通り1本で繋がるので不便がなく、かといって歓楽街である中洲からは程よく遠いため気軽に「ちょっと一杯…」と出かけられないのが良いのだとか…。


また若乃花はインタビューで「こんないいところはちょっとないな。空気はいいし、景色はすばらしいし、遊ぶところも遠いし、相撲とりにはもってこいだよ。いまにね、この海岸にほかの部屋もずらりと並ぶかもしれませんよ」と、のちの「お相撲銀座」を予言するような事を語っていました(『相撲』昭和34年8月号)。



力士たちも時間が空くと浜辺でボートに乗ったり海釣りを楽しんだり(若ノ海関は自前の高価な釣り竿を持参していたのだとか)、また浜辺をランニングしたりと、百道での滞在を満喫していたようです。


ただ難点もあったようで、ある年には折柄の荒天で大波が打ち寄せたため、海岸に面していた稽古場の土俵が半分近く削り取られてしまったのだとか。

これは海辺ならではの珍事件でしょうね…。




また、百道に相撲部屋ができ始めたのは昭和34(1959)年からですが、同じ年、もう一つ百道にできた施設があります。


それは、西鉄ライオンズ寮です。


それまで唐人町にあった寮がこの年に百道に新築移転。ここは一軍の寮で、雨天練習場なども備えた立派なものだったといいます。


ライオンズ寮は、この「お相撲銀座」のすぐ裏手にありました。


(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


これだけご近所なのですから、当然力士たちとライオンズ選手との交流も多かったようです。




水不足に苦しんだ昭和53年

昭和53(1978)年は福岡市を大渇水が襲った年でした。

前年の7月以降、雨量が極端に減り、年が明けてもその傾向は変わらず、梅雨も早々に明けてしまい、まとまった降水量がないまま、福岡市はこれまでに例を見ないほどの水不足に陥ります。


これにより、5月からは給水制限も始まりました。

当初5日間だった制限は実施されるたびに7日間、10日間、15日間と徐々に長くなり、9月にはなんと61日間も連続して給水制限を行う事態に至ったのです(第4次給水制限/10月31日まで15時~21時の6時間)。


(『福岡市史』第12巻 昭和編続編四〈1994年、福岡市〉より)
共用栓による緊急給水の様子。


この年の九州場所は11月12日~26日(この時はもう会場が九電記念体育館に移っています/昭和49年~)。

通常、先発隊も含めると2週間ほど前から現地入りするのですが、この水不足によって例年より1週間~10日ほど福岡入りを遅らせたのだそうです。

それでも、いざ福岡入りすると「風呂に入れない」「チャンコが作れない」「洗濯ができない」など、水不足の影響が出はじめます。


九州場所が始まった当初は福岡市に集中していた宿舎ですが、この頃には郊外にその拠点を移している部屋もありました。佐渡ヶ嶽部屋(筑紫野市)と高田川部屋(春日市)の宿舎はそれぞれ市外にあったため、この難を逃れています

また、当時31あった部屋のうち19部屋は宿舎に井戸を掘るなどの策が功を奏し、あまり不自由はなかったようです。


それでももちろん大きな影響を受けた部屋もありました。


二所ノ関部屋と九重部屋はそれまでお互いに経費を負担し合って近くの銭湯と契約して利用していたものの、福岡入りが1週間遅れたのに料金は昨年の2倍近くを請求される始末

仕方ないのでそれぞれに風呂場を新設することになったそうです(でも銭湯のような広さがないので、あまり経済的ではなかった模様)。

これは極端な例ですが、他でも「滞在期間が短いのに風呂屋の料金は据え置き、実質の値上げ」となった部屋は多かったようです。



そんな中、「一番の被害者」と言われたのが、当時百道に宿舎を構えていた花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋の3部屋でした。

他の部屋のように井戸を掘ろうにもそこは海辺。掘っても出てくるのは潮水ばかりで使えません。

そこで考えられた策が貯水槽の設置でした。

花籠部屋では4トンの水が溜められる貯水槽を浜に埋め、さらに1トンの給水タンクを追加、二子山部屋では平戸屋の屋根に1トンの貯水槽を設置しました。

しかし、花籠部屋はまだ真水を貯水していたようですが二子山部屋は貯水した水も海水…。立田川部屋にいたっては貯水槽がなく、120リットルのポリバケツに水を溜めて生活したそうです。



この年の九州場所担当理事だった時津風親方はこの「水不足場所」を終えてのインタビューに、

「使い捨て時代といわれるように、最近の日本人は物を粗末にしてきた。水道の水にしても当然出るものと思うようになっている。だが、今回このような深刻な水飢饉を経験して、いかに物を大切にしなければならなかったかが、わかった。若い力士達に節約、倹約の美徳、重要性を教えてくれた。」

とコメント。さらに、

「それにこれほど水に困っているところに大所帯で乗り込んだのに悪感状を抱くどころか〝もっと早く来てけいこを見せてくれ〟とおっしゃって下さる市民の方が多かった。この点大相撲に対する温いご支援の気持ちがわかりうれしかった」

という談話を残して福岡を後にしました(『相撲』昭和53年12月号)。




力士たちに愛された百道

百道は力士たちにとても愛され、絆も大変深かったようです。

その証拠に、かつて花籠部屋に所属した力士が、のちに親方となって独立・創設した二子山部屋放駒部屋引き続き百道の旅館を宿舎としていて、両部屋とも百道とは長い付き合いとなっています(二子山部屋は平戸屋、放駒部屋は花籠部屋消滅後にピオネ荘を利用)。


百道で一番有名だったであろう宿舎・ピオネ荘の主人である柴田さんは、なかでも相撲界とは深い付き合いがありました。

百道で最初に宿舎として相撲部屋に宿を提供したのはもちろんですが、花籠部屋に所属していた大関・魁傑が引退を決め行われた断髪式では柴田さんも会場に招待され、マゲにハサミを入れたのだそうです。

魁傑はのちに17代・放駒を襲名し放駒部屋を創設。花籠部屋のあと、ピオネ荘を宿舎として利用しています。

そんな柴田さんは新人をスカウトして放駒部屋に紹介したこともあったのだとか。昭和59(1984)年に初土俵を踏んだ鶴ノ里(最高位は三段目13)は、中学3年生のときに親方に会わせると柴田さんが口説き落としたのだそうです。


また、昭和37(1962)年の部屋創設当初から平戸屋を宿舎としてきた二子山部屋は、ずっと懇意にしてきた平戸屋のご主人が昭和53(1978)年9月に亡くなると、秋場所中にもかかわらず二子山親方(初代・若乃花)が飛行機で急きょ来福。なんと葬儀委員長を務められたのだそうです。

その後、九州場所で力士たちが来福した11月6日には別途法要が営まれ、また若乃花(二代目)は横綱になって初めての九州場所でもあったことから「オヤジさん楽しみにしてたのにな…」と故人を偲んだといいます。


いずれも長い時間をかけて築いたであろう深い信頼関係が分かるエピソードです。


* * * * * * *


いかがだったでしょうか。

シーサイドももちの前史としての百道海岸はやはり百道海水浴場が中心になりがちなのですが、その海水浴場が下火になってからは海とお相撲さんの姿が新たな百道の風物詩となりました。


最初に言い訳したとおり、相撲の地方場所はまとまった形では詳細な記録がないため、とくに宿舎の話などは採集するのはなかなか骨が折れる作業でした。

まだまだ分からないことや調査しきれなかった部分の方が多いのですが、とはいえ昭和30年・40年代以降の事ですので、きっとご記憶にある方、事情にお詳しい方も大勢おられると思います。

調査は継続していますので、百道と相撲部屋についてご存知の方がおられましたら、どんな小さなエピソードでも結構ですので、ぜひ情報をお寄せいただければ幸いです!



錦絵「式守伊之助・不知火・鏡岩・浦風」
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」)



【参考資料】

『相撲』(ベースボール・マガジン社)
・昭和34年12月号(126号) p.60「特集第三話 精魂つきた?若乃花」 p.109「[相撲部屋聞き書き帖 二所・花籠部屋]ピオネ荘はいいところ」 グラビア「海のある部屋(花籠)」
・昭和36年12月号(153号) p.109「[相撲部屋聞き書き帖]二所ノ関 花籠 佐渡ヶ嶽」 p.151「[宿舎訪問]博多の宿かけある記 花籠」
・昭和43年12月号(244号) p.116「ルポルタージュ ボクはピオネ荘」
・昭和46年5月号(275号) p.138「全国相撲場案内 あなたも相撲が見られる!/福岡場所(十一月) 九州は相撲王国 十一月場所の熱狂/百道の海岸はお相撲銀座」
・昭和50年1月号(326号) p.84「[いつ どこで だれが なにを]花籠部屋」
・昭和52年10月号(364号) p.72「十一月場所宿舎割表」
・昭和53年12月号(380号) p.74「窮水(九州)場所 水を相手に大相撲」 p.102「[いつ どこで だれが なにを 相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋」
・昭和54年7月号(388号) p.140「魁傑がマゲと別れた日…」
・昭和54年11月号(392号) p.107「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和54年12月号(393号) p.117「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和55年12月号(406号) p.124「[相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋」
・平成2年12月号(534号) p.145「[相撲部屋聞き書き帖]放駒部屋
・平成6年3月号(576号) p.70「[幕下以下各段報告 平成6年初~6年春場所」
・平成6年11月号(584号) p.61「水がない?! 九州場所を目前に断水続く福岡」

・『西日本新聞』(西日本新聞社)
・昭和34年10月26日 朝刊7面「若乃花が一番乗り 九州本場所入りの大相撲一行」
・昭和34年10月29日 夕刊3面「力いっぱい猛げいこ 大相撲九州場所まであと10日」
・昭和34年11月3日 朝刊8面「大相撲けいこ場拝見 九州場所/花籠部屋」
・昭和34年11月6日 夕刊6面「土俵の王者と陸上のチャンピオン」
・昭和34年11月14日 朝刊7面「[大相撲九州場所から―六日目―]横綱には13日の金曜日 花籠部屋は魚釣りの大流行」
・昭和35年11月1日 朝刊7面「[どんたく]園児と若乃国関」
・昭和35年11月6日 朝刊12面「[九州場所けいこ場めぐり2]花籠部屋」
・昭和36年11月6日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関、佐渡ヶ嶽、花籠」
・昭和36年11月8日 夕刊3面「[花時計]」
・昭和37年11月2日 朝刊8面「博多の秋楽しむ関取り 高まる相撲気分」
・昭和37年11月5日 朝刊8面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関部屋/花籠部屋]」
・昭和37年11月7日 朝刊13面「[九州場所けいこ場めぐり3]伊勢ノ海部屋」
・昭和38年11月4日 朝刊10面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和38年11月10日 朝刊5面「おすもうさんの一日」
・昭和39年11月2日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和42年11月8日 朝刊7面「[話題の力士]横綱陣」

・『西日本スポーツ』(西日本新聞社)
・昭和45年11月10日 3面「[九州場所に燃える4]」
・昭和47年11月4日 3面「[博多の貴・輪]土俵の鬼も愛児にゃコロリ」
・昭和47年11月5日 3面「[博多の貴・輪]輪島 タブーなんか破っちゃえ 一石二鳥?の早朝ランニング」
・昭和49年11月5日 3面「[九州場所 話題の力士1]若三杉・荒瀬 筋金入りの小結」
・昭和52年11月5日 2面「[けいこ場往来]」
・昭和52年11月6日 2面「[けいこ場往来]〝辛抱〟してまーす 外人力士」

・「大相撲十一月場所」(福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来』2012年、福岡市)

・『福岡市史』第十二巻 昭和編続編(四)(1994年、福岡市)

・福岡市水道百年史編纂委員会編『福岡市水道百年史』(2024年、福岡市水道局)

・ウェブサイト
 ・日本相撲協会公式サイト https://www.sumo.or.jp/
 ・相撲部屋興亡史(大相撲パラサイト) https://sumopara.jimdofree.com/
 ・どすこいビーチクリーン2024 https://umisakura.com/doskoi/f2024/


シーサイドももち #百道海岸 #大相撲十一月場所 #九州場所 #花籠部屋 #二子山部屋 #ピオネ荘 #平戸屋 #海の家 



Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 


※ 図中の誤字を修正しました(2024.11.19)

※ 一部注釈を加えました(2024.11.20)