〈104〉第1次西新元寇ブームの熱狂 ー元寇防塁今昔③ー
百道を語る上で欠かせない要素の一つである「元寇防塁」。
13世紀に日本は元軍(モンゴル帝国)による二度の襲来を受けました。これがいわゆる「元寇(蒙古襲来)」です。
こちらの連載でも何度も登場していて恐縮ですが、元寇防塁とは文永11(1274)年の蒙古襲来を受けて幕府が博多湾の海岸線に築いた「石築地(いしついじ)」のことで、「元寇防塁」という名前は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した病理学者で考古学者でもあった中山平次郎氏が名付けたものです。
また、この様子を描いた竹﨑季長の絵巻「蒙古襲来絵詞」はとても有名なので、元寇といえば「あの絵」を思い出す方も多いでしょう。
こちらのブログでも「元寇防塁今昔」と題して、これまで2度ほど元寇防塁とその周辺にまつわるお話をご紹介してきました。
1回目は大正9(1920)年に西新の元寇防塁が発見され注目度が一気に上がってからのこと。昭和6(1931)年に国史跡に指定されてからは元寇防塁が福岡市の重要な「観光コンテンツ」の1つとなり、観光絵図に描かれたり、元寇防塁の地を走る「元寇マラソン大会」が開催されたというお話でした。
2回目は、昨年2024年が弘安の役(1724年)から750年に当たる年だったことから、西新周辺で行われたさまざまな元寇関連の記念行事について取材したレポをお届けしました。
元寇防塁が最初に発見されてから今年で112年(大正2〈1913〉年/今津)。
この史実はよほど日本人の心に刺さるのか、この100年の間に幾度かの「元寇ブーム」が起こっています。
その波は現代も続いていて、数々の小説やマンガ、そしてゲームの題材になり、年齢を問わず人気を博しています。
最近では脚本家で演出家、映画監督でもある三谷幸喜さんが主宰する伝説の劇団「東京サンシャインボーイズ」30年ぶりの復活公演が「元寇」を題材としたものと発表され、個人的にはひっくり返るほど驚きました(ちなみに舞台は壱岐だそうです)。
そんな、いつの時代も日本人の心を捉えて放さない(?)「元寇」ですから、防塁が発見された当初は西新町の一大トピックとして盛り上がりを見せていたようです。
西新と元寇とミヤ女史
百道(百道原)など西新に関する地名は絵巻「蒙古襲来絵詞」にも登場しますので、昔から西新の人々は元寇とのつながりを感じていたようです。
実は元寇防塁が発見される前から、すでに西新には「元寇神社」が建立していました。
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(福岡市史編さん室撮影)
西新にのこる史跡・元寇防塁。
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(福岡市史編さん室撮影)
西新の元寇防塁の隣に建つ元寇神社。
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現在も元寇防塁史跡の隣に建つ元寇神社ですが、同社を管理する紅葉八幡宮によれば、その始まりは大正7(1918)年といいます。
そこには西新出身の超有名人であった頭山満も関係していたそうで、元寇神社の建立はその頭山を筆頭に、西新町神道婦人会会長だった藤井ミヤさんら有志による発案と言われています。
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国立国会図書館「近代日本人の肖像」より
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
40代のころの頭山満。
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さらにこの藤井ミヤ女史、なんとその翌年の大正8(1919)年には、時期は不明ですが、自身の夢枕に「白馬に跨がり修羅の姿で霊が現れ」たことから、現在の防塁跡がある北側の松林で慰霊祭を行うことにしたのだそうです(『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』)。
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この年の6月には西南学院の敷地内で西新町の元寇防塁発見第1号となる防塁の痕跡が見つかっているので、ミヤ女史の夢枕の話はこの発見を受けてのことかもしれませんが、その辺をあまり突っ込むのは野暮というものかも…。
こうして持ち上がった慰霊祭の実現に向け、ミヤ女史たちは西新町の全戸を当たって寄付金を集め、また一部の篤志家から出資を募り、同年の10月20日には盛大な慰霊祭を成功させたのだそうです。
ちなみに大正8(1919)年の西新町の戸数は、『早良郡誌』の記述によれば1484戸だったそうなので、それを1戸1戸まわったと考えると、それだけでも相当な労力だったことが伺えます。
そして翌年の大正9(1920)年10月30日、のちに国史跡指定となる西新町の元寇防塁が発見されることになります。
突然の元寇神社建立から1~2年の間に防塁が発見される…。
しかも大正9年に見つかった防塁は、弘安の役が起こった10月に発見され、さらにその発掘事業は教育勅語下賜三十年を記念して行われた西新尋常高等小学校(現・西新小学校)の式典の一環で、実際に掘り出したのは西新小の児童たちだったというのですから、ここまで来ると、何とも出来すぎたお話のようにも感じてしまいます(心の目が曇っているので)。
この発掘を指揮したのは、当時筑前史談会のメンバーでもあり、今津史跡保存顕彰会会長として今津に元寇の碑を建てた郷土史家の木下讃太郎氏(かつて西新高等小学校の准訓導だったこともある)だったので、発掘自体は「たまたま」の発見ではなく、ある程度計画的なものだったのかもしれませんが。
とはいえ、西新町と元寇にとってこの時期は、まさに劇的な2年間だったということは間違いなさそうです。
元寇記念会による招魂祭
さて、こうして西新でもめでたく元寇防塁が発見されたわけですから、それを地元の皆さんが黙って見ているわけはありません。
実はこの掘り出された元寇防塁は私有地にあったため、当時からその保存について危惧する声が上がっていました。
そこで大正10(1921)年3月には当時の早良郡長である川端久五郎を会長として、早良郡の有志が集まり「元寇記念会」が発足しています。
記念会は主に西新町役場を会場として、その保存方法などについて協議が行われたそうです。
ちょっと話は逸れますが、この元寇防塁が見つかった「私有地」を所有していたのは、明治時代から百道松原の土地をいくつか所有していた代議士の藤金作です。
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(『藤金作翁』より)
実は西新と関わりが深い藤金作(88歳の頃)。
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藤金作と百道についてはこのブログでもさまざまなところで紹介していますが(それだけ西新町と藤金作は深い関わりがあるわけでして…)、中でも元寇防塁の土地にまつわるお話はこちらで紹介しました。
さらにさらに、ここで登場する郡長の「川端久五郎」の名を覚えている方がもしおられたとしたら、それは相当の【別冊シーサイドももち】フリークですね(いるのか、そんな人)。
川端久五郎は以前こちらで紹介した「百道女子学院」を創設した調須磨(しらべ・すま)さんの伯父で、須磨さんを何かと支援していた人物でした(覚えてます??)。
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(『早良郡誌』より)
早良郡長だった川端久五郎。
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こちらの話はまだ分からない事も多いのですがとても興味深いので、ぜひコチラをご覧いただければと思います。
閑話休題。
完全に話が逸れました。話は元寇記念会に戻ります。
こうして発足した元寇記念会は、史跡保存のほかにも、大規模な招魂祭の開催を計画しました。
招魂祭は会が発足した翌月に開催されているのですが、これがなかなか大規模なもので、百道松原を会場に、4月20日・21日の2日間にわたって開催されています。
元寇招魂祭の全貌
4月20日の招魂祭の様子は当時の新聞に詳しく紹介されています。
まず、冒頭からいきなり太刀洗飛行場より航空隊の飛行機2機が飛来、3千メートルの高さからの急降下や旋回飛行を繰り広げ祝意を表しました。
来賓は川端郡長のほか、当時の安河内県知事、町村長総代、軍からは旅団長や師団長などが臨席。
招魂祭の祭式は鳥飼八幡宮の宮司が執り行っています。
そして注目すべきは壱岐村の村会議員だった土斐崎三右衛門が「文永の役の〝遺族代表〟」(「筑前高祖城主原田種輝二十七代の末裔」とある)として臨席し、謝辞を述べていることです…!
「文永の役の〝遺族代表〟」とはなかなかのパワーワードですが、ここから昭和10年代に行われた元寇にまつわる慰霊祭や招魂祭ではたびたびこうした「遺族」という立場で式に参列する例が見られます。
いまではとても想像できませんが、かつては元寇ももっと地続きなものだったのかもしれませんね。
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(『早良郡誌』より)
文永の役の遺族・土斐崎三右衛門。
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そして式典に多くの集まった一般参拝者以外に、多くの児童・生徒たちが動員されました。
福岡師範学校のほか、近隣の中学修猷館(現・修猷館高校)や西南学院をはじめ、早良郡内の小学生らなんと約3千人が学校単位で参拝したといいます。
さらに午後からは福岡聯隊第一大隊による大規模な攻防演習が百道松原を舞台に行われ、2日間は大熱狂のうちに幕を閉じたということです。
元寇殉難者のための言わば慰霊祭なのでしょうが、まるでお祭りのようですね。
また「招魂祭」ということから、西新町では各地区ごとに「曳台」と呼ばれる飾り物を用意し、町内を練り歩きました。
新聞記事に残る各地区の曳台は次のようなものが紹介されています。
皿山
亀山上皇の宇佐八幡宮祈願
大西
力士に見立てた日本と蒙古(日本山と蒙古山)が相撲を取り、日本山から蒙古山が投げられる場面
新地
将軍北条時宗凱旋の光景
中西
鎧武者が牛の子を突き殺す場面(牛の子=モウ子=蒙古)