2025年6月27日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。







〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~


 今年2025年は、かつて百道にあった福岡刑務所が糟屋郡宇美町に移転して60年の節目の年に当たります(誰一人気にしてないアニバーサリーかもしれませんが…)。


 跡地は現在、早良区役所や早良市民センター、SAWARAPIA(旧 ももちパレス)などの公共機関が集まる場所となっていますが、ここにはかつて、高い赤レンガの塀に覆われた、巨大な監獄(刑務所)が建っていました。


(地理院地図を基に作成)



 地図の中の赤く囲われた部分が、かつて福岡監獄(福岡刑務所)があった場所です。監獄は堅牢な赤レンガの塀に囲まれていて、その南側には看守たちの官舎エリアがありました。塀の南側中央にあった正門は赤レンガの中の監獄に入るための門ですが、そこから官舎エリアに向かってまっすぐ進んだ先には全体の表門があり、実際の敷地の入口となっていました。



(『紀念写真帖』より)
竣工当時、表門付近からみた監獄の様子。
中央に写っているのが監獄の正門です。

かつて表門があったと思われるのはこの辺。
だいたい福岡市地下鉄藤崎駅の2番出口があるあたりです。
写真は、ちょうど猿田彦神社の前から北向きに撮っています。




 福岡刑務所は大正5(1916)年、当時は松林以外何もなかった百道の地に建てられました。
 ですがそんな百道にも徐々に人家や人の往来が増えていき、戦後になると周辺は一気に都市化します。戦後の開発によって西新周辺が副都心化する中で、約50年間そこに立ち続けた赤レンガの刑務所はまちに馴染まない存在となり、昭和40(1965)年、ついに解体されて糟屋郡宇美町の現在地に移されました。


(宿久晃氏撮影/個人蔵)
(宿久晃氏撮影/個人蔵)
解体中の福岡刑務所の様子を捉えた貴重な写真。
塀以外もレンガだったことがよく分かります。


 福岡監獄(刑務所)については百道の歴史の一つとして、こちらのブログでも過去4回(!)にわたって紹介してきました。


 まずは、福岡監獄が西新町に移ってくる前のお話(第60回)。次は完成した福岡監獄の建物を「建築見学ツアー」としてご紹介したお話(前後編/第62・63回)、それから時代がぐっと下って、戦中の福岡刑務所に収監された韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の没後80年にあわせて行われた、追悼式や記念講演会の様子、そして来日された尹東柱のご遺族と一緒に福岡刑務所跡地を歩いたというお話でした(第102回)。




 第5弾となる今回は、刑務所移転60年記念ということで、明治~大正初期にかけてのビックプロジェクトだった福岡監獄の建設について、建設当時の状況をもう少し細かく深掘りしてみたいと思います。



* * * * * * *



明治に起こった近代監獄建設プロジェクト

 福岡監獄は、明治41(1908)年に工事が始まり、大正5(1916)年に完成しました。この時期は、監獄や拘置所などが全国でつくられており、それらは当然国の事業として行われました。


 明治時代、政府は司法制度の再整備を行いますが、これには外交に際して「日本は欧米諸国と対等な文明国であり、近代的な法治国家である」と諸外国にアピールするといった目的もあったといいます。

 そこで政府が取り組んだのが、近代監獄の設置です。近代監獄は、西洋の監獄建築を参考にしてつくられており、堅牢で美しいレンガ造りが特徴です。


 なかでも明治33(1900)に監獄法が施行され、最初の監獄改築計画としてつくられた長崎監獄(明治40年竣工)、千葉監獄(明治40年竣工)、金沢監獄(明治40年竣工)、奈良監獄(明治41年竣工)、鹿児島監獄(明治41年竣工)は、「明治五大監獄」と呼ばれます。


 これらの監獄は象徴的な正門や一部の建物が現在でも残されていますが、とくに旧奈良監獄は現在でも唯一原形を保った形で保存されています。現在は耐震改修工事のため見学はできませんが、2026年春には星野リゾートによってホテル・ミュージアムとして生まれ変わる予定だそうです。




 これら「明治五大監獄」を設計したのは、当時司法省営繕課にいた司法技師の山下啓次郎太田毅でした。山下も太田も帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)を卒業して司法省に入庁したエリート技師です。


 2人は8歳ほど年の差がありますが(山下の方が年上)、どちらも日本銀行本店や東京駅の建築などで知られ「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の弟子でした。また、山下はジャズピアニストとして活躍されている山下洋輔さんの祖父に当たります。


 一方の福岡監獄は、先ほどの明治五大監獄の後、第2期の監獄改築計画としてつくられた監獄です。ちなみに同じ第2期として建設が計画された監獄は、甲府監獄(山梨県/明治45年竣工)、秋田監獄(秋田県/明治45年竣工)、安濃津監獄(三重県/大正4年竣工)、豊多摩監獄(東京都/大正4年竣工)がありました。



福岡監獄の設計者は?

 先ほど「明治五大監獄」の設計は山下・太田が手がけたと言いましたが、では福岡監獄を設計した人物は一体誰なのでしょうか?
 これは現在のところ正確には分かっていません。


 というのも、福岡監獄に関しては設計図面などの詳細な資料が見つかっておらず、具体的な設計者名の特定には至っていないのです。



 ですが、まったくヒントがないわけではありません。当時、監獄や裁判所などの司法に関する建築物の設計は、司法省内にあった「営繕課」が担っていました。営繕課には司法技師と呼ばれた高等専門技術者が在籍しており、司法施設の設計や建築監督などの業務を行いました。


 福岡監獄の建設に当たっては、建築現場で実際に指揮を執っていたのは山下ではなく、その部下の金刺森太郎という人物だったことがわかっています。


 金刺は、上司である山下や太田など名だたるエリート官僚たちとは違い、静岡の旧制韮山中学校を卒業後、各地の建築現場で地道に修業し、30歳を超えてようやく技手として司法省に入庁(明治29〈1896〉年)した、言わば「たたき上げ」の人物です。その金刺が入庁からさらに十数年という長い下積みを経てようやく技師に昇進し、初めて担当したのが福岡監獄の設計監督でした。


 それでは金刺が福岡監獄を設計したのかといえば、そうとも言えないようです。
 福岡監獄の建設が始まった明治41(1908)年前後、司法省営繕課にいた技師は、山下と太田の2名のみでした(太田は明治39年まで)。この頃の金刺の役職はまだ「技手」で、あくまでも技師の補佐役です。


 金刺は技手から技師への昇進と同時に、福岡監獄建設現場への在勤を命じられています。福岡監獄は同年6月には建設が始まっていますので、金刺が技師として着任する前から補佐的に設計に関わった可能性もありますが、その場合でも主な設計者は上司であった山下や太田と考える方が自然でしょう。



苦労人・金刺森太郎のその後…

 実は金刺が福岡にいたのはほんの短い期間だったようなのです。金刺は福岡監獄の現場に着任してそれほど経たないうちに、今度は大阪控訴院大阪地方裁判所管区の大阪区裁判所の現場への勤務を命じられています。記録によれば明治43(1910)年6月にその辞令が出ていますので、わずか1年半ほどで福岡を離れたであろうということがわかりました。


 金刺はこの後も数年ごとに大阪→神戸→名古屋→京都→東京→大阪・名古屋(兼務)とくり返し異動を命じられ、各地の監獄や地方裁判所などの建築に従事しています。


 とりわけ有名なのは、2024年に放送されたNHKの朝ドラ「虎に翼」のロケ地としても有名になった「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」。これも金刺と山下の設計による建築物です。この建物は現在でも名古屋市市政資料館として使われており、建物だけでなく図面資料なども保存され、一般に公開されています。


 名古屋控訴院地方裁判所の建物は、金刺にとって苦労を重ねた建築技師人生の集大成ともいえる建築物であり、苦労のすべてが詰まった最高傑作ともいえるでしょう。
 金刺がこの大仕事を手がける前に福岡監獄建設の任に就いていたと思うと、なんとも感慨深いものがあります。






レポ・福岡監獄の建設現場から

 さて話を福岡監獄に戻しましょう。


 福岡監獄の工事が始まった頃は他の監獄建設も同時に計画が進んでいたため、営繕課でも明治42(1909)年からはそれまで5名だった技手が16名に増員されました。
 増員された技手たちのうち、16名中9名が金刺と同じように全国各地の建設現場への勤務を命じられています。福岡監獄にも中村善兵衛重松勘之助という2名の技手が、金刺と同じタイミングで福岡の現場へ配属されたようです。



 一方、金刺が福岡を去ってすぐ後、本格的な工事が始まっていた明治43(1910)年8月に、福岡監獄の建設現場を取材した記者がいました。


 それは、福岡日日新聞社にいた斎田耕陽という記者です。


 斎田は、御笠村阿志岐(現在の筑紫野市阿志岐)の出身で、群馬や静岡の学校で教員を勤めた後、明治39(1906)年に福岡日日新聞社に入社し記者となりますが、その後昭和2(1927)年には同社の初代事業部長となった人物です。
 そんな後には出世する斎田ですが、福岡監獄建設現場の潜入記事を書いた当時はまだ入社4年目。「多加羅」という筆名で、文教担当として記事を書いていました。


 記事ではそんな多加羅こと斎田耕陽が建築中の福岡監獄に潜入し、その様子を3回にわたって細かくレポートしています。


 さすが新聞記者、前々から看守長とはすでに「顔馴染」になっていたようで、その看守長に先導され、さっそく「工務室」で「重松主任技手」と「森技手」という2人の担当者を紹介されています。この「重松主任技手」とはおそらく金刺とともに福岡に赴任していた重松勘之助で、「森技手」とは同じく司法省営繕課にいた森兵作という技手だったようです。


 斎田が取材した時点での建設状況は、正門前の看守長官舎6戸と、西側看守官舎2棟11戸、さらに受刑者が作業するための工場1棟が完成し、中央見張所を含む監獄の中央部分はまだ建設中といった状況でした。
 また、記事には看守官舎の予定地に仮設した監房9棟のうち7棟は移転前の須崎裏本監から移築している、と書いています。受刑者のうち約700名をそこに収監し、残りは建設途中の中央見張所付近の廊下を仮監房として、そこに収監していたようなのです。


 斎田はさらにこの取材で当時の建設予定平面図も見せてもらっています。しかし、福岡監獄の建設は途中何度か計画が変更されているため、この時の取材で斎田が見せてもらった図面と最終的な出来上がりとは少し違っています。


 細かい部分の違いはもちろんありますが、大きく違うのは次の2点です。


 こちらが実際に完成した配置図

(『紀念写真帖』掲載の平面図を基に作成)





 そしてこちらが斎田が取材した当時計画されていた配置図です。

(『紀念写真帖』掲載の平面図に記事の内容を反映)


 このように、中央見張所より手前の部分には本来「拘置監」と「女監」という施設ができるはずでした。拘置監とは、刑事被告人や死刑の言い渡しを受けた者を拘禁する場所で、女監とはその字の通り女性受刑者のための監獄です。


 ところが建設途中で青年監(一般の受刑者よりも若い受刑者を収容)と、幼年監(少年犯罪者を収容)を併設しなければならなくなり、計画は変更に…。


 結果、拘置監は土手町にあった福岡区裁判所敷地内に「福岡監獄土手町出張所」(現在は中央区役所がある場所)を建て、女監に収容予定の女性受刑者たちは、久留米にあった分監(現在は福岡刑務所久留米拘置支所)に移されることになりました。こうした計画変更は、最終的に工期が延びることになった一因でもありました。



 斎田はさらに実際の建設現場の様子も細かく見聞きし、レポートしています。こちらは、斎田が取材した福岡監獄の建設に携わっていた作業者の内訳です。

 木工(大工) 106名

 木挽き 49名

 鍛冶  42名

 石工  52名

 畳製造  5名

 レンガ製造 111名

 レンガ積み 35名

 左官  13名

 その他人夫 330名

 雑役  32名

 合計  775名

※「その他人夫」のうち、約100名は砂取り、その他は各所手伝い、運搬、地均しなど。
※「雑役」は、炊事・掃除等も含む。

※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成 


 しかもこれらの作業を担ったのは、実際そこに収監されている受刑者たち…そう、この775名の作業者は、全員が受刑者というわけです。


 とはいえ、そう都合よく大工仕事に経験がある受刑者がいるわけでもありません。それはそうですよね、大工仕事のために監獄に入ったわけではなく、たまたま囚人が大工だっただけで…。


 そこで当初は、なんとこの工事のためにわざわざ長崎監獄から大工の専門知識がある受刑者を福岡監獄に移して作業に当たっていたのだそうです。


 そこまでして…という気もしなくはないですが、このように監獄建設の際に刑務作業の一環として受刑者に建設作業を担わせるというのは、当時営繕課長だった山下啓次郎の意向だったといいます。何も福岡監獄に限った話ではなく、当時多くの監獄はこうしてつくられていました。


 斎田が取材した時点では、もうすべて福岡監獄の受刑者で仕事を回していたようですが、大工仕事担当の106名のうち、元から大工として仕事をしていた者(あるいはその知識があった者)はわずか10名程度。残りはみな先輩受刑者が指導して「全くの素人を漸次監内で養成した」のだとか…。


 この記事を読んで「大工はともかく、それは…」と思ったのは、職人の中の「鍛冶」は、監獄で使う金物の一切をつくっていたそうで、当然監獄の錠前も作っていたそうなのです。斎田もさすがに「"自縄自縛"の語も思ひ出されて変に感した」と率直な感想を書いています。そりゃそうだ…。


 とはいえ、作業をする受刑者たちは思いのほか(などと言ってはいけませんが…)真面目に監獄建設に取り組んでいたようです。斎田の取材に同行した記者は「娑婆におってこれぐらいに勉強すれば、悪事をなさなくとも立派な生活が出来ますのに」とつぶやいています(といっても脱走騒ぎがないわけではなかったようです…くわしくはコチラでご紹介しています)。



 もちろん彼らを指導・管理するのは看守たちです。当時福岡監獄に配属されていた職員の内訳は下記のとおりでした。

 典獄 1名(毎週3日勤務)

 第2課長 1名(毎日出勤)

 看守長 2名

 部長  6名

 看守  60名

 主任技手(看守長兼務) 1名

 第三課分遣看守長 1名

 技手  2名

 工手  1名

 看守  1名

 雇書記 1名

 第一課・第三課事務看守 3名

 合計 80名

※ 典獄とは現在の刑務所長を指す。
※ その他の役職は記事に記載された通り。
※ 主任技手(看守長兼務)は重松のことと思われる。

※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成


 現在の刑務所の看守職員数は正式には公表されていませんので比較はできませんが、800人近くの受刑者に対して80人の看守というのは、さすがにちょっと心許ない気もしますよね(しかもほとんどが外で建築作業をしているという…)。



 こうして監獄建設の様子を隅々まで見学した斎田は、最後に工事中の建物の2階に上がらせてもらい、次のような感想で記事を締めくくっています。


工事中の第二監の二階の棟に登臨した時は新に一種の感が浮んだ。見渡せば海の中道、志賀、残の島(注:能古島)、袖浦の碧水を隔てて皆一望の中に入る。更に南に向き反れば、門前近く猿田彦大神の社に対し、やや距れて稲荷山の涼し相な風景も呼応の間に見えて居る。東は緑滴るばかりの松の梢を天上から眼下して脚下に千眼寺の瓦を看(み)、西は室見の清流を隔てて愛宕の山を仰ぎ見る。知らず愛宕山の頂辺に立ち、福岡新監獄の壮観を下瞰しつつ「大丈夫当(ま)さに此に居るべし」と壮語して居る新将門的快男児ありや否や。

※(注)は引用者、( )内のひらがなは記事中にあるフリガナ。
「新築中の福岡監獄(三)」より(明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面



* * * * * * *



 いかがだったでしょうか。
 今回は福岡監獄の建設当時の様子についてご紹介しました。


 …さて、賢明な読者の皆さんはすでにお気付きでしょうが、来年は福岡監獄竣工110年の節目に当たりますね!


 まだまだ分からないことが多い福岡監獄建設史ですが、来年のアニバーサリーイヤーに向けて、今後もこうした細かい情報を拾い集め、百道の歴史の1ページとして福岡監獄建設の謎について引き続き追いかけてみたいと思います! がんばります!



(『紀念写真帖』より)
竣工した大正5年の時の看守や職員たちの集合写真。




【参考資料】

・『司法省沿革略誌』明治41年1月−明治45年7月・大正1年7月−大正5年12月・大正6年1月−大正10年12月・大正6年1月−大正10年12月

・『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、柴藤活版所、1916年)

・筑紫野市史編さん委員会編『筑紫野市史 下巻 近世・近現代』(筑紫野市、1999年)

・瀬口哲夫「再見 東海地方の名建築家③ 建築人生の花道となった名古屋控訴院/設計監督工事者・金刺森太郎」(『ARCHITECT』2005年6月号、JIA公益社団法人日本建築家協会)/http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2005/06/seguchi.htm

・石田潤一郎「赤れんがの監獄が物語る明治の近代化」(重要文化財旧奈良監獄見学会講演会資料、2017年7月16日開催)

・新聞記事
   ・明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面「新築中の福岡監獄(一)」
・明治43年8月21日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(二)」
・明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(三)」

・資料
   ・「臨時司法省ニ技師技手ヲ置ク」(公文類聚・第三十二編・明治四十一年・第三巻・官職二・官制二・(大蔵省・陸軍省・海軍省・司法省))/アジア歴史資料センター
   ・「職員録」明治29年~大正13年

・ウェブサイト
 ・旧奈良監獄(https://former-nara-prison.com/index.html)
  ・「[歴史]近代監獄の夜明け」(旧奈良監獄)(https://former-nara-prison.com/history/modernized-judicature/)
  ・「[歴史]明治五大監獄」(旧奈良監獄)(https://former-nara-prison.com/history/meiji-five-prison/)」
 ・「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」(文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/189023) 
 ・「名古屋市市政資料館」(愛知県の公式観光ガイド Aichi Now/https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/190/)
 ・「福岡県内編線図」(矯正図書館/情報資源/https://jca-library.jp/chart_Fukuoka_1.pdf)
 ・「刑務所.net」(http://keimusho.net/59fukuoka.html)




Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

※「参考資料」を追加しました。(2025.6.27)

2025年4月30日水曜日

令和7年度をむかえて

 四月になりましたが、寒暖の差の激しい毎日で、体調管理が難しい日々が続いています。博物館総館長の中野です。未体験なことばかりの初年度がようやく終わりましたが、二年目ももうしばらくは試行錯誤が続きそうです。今年度もよろしくお願いします。

 このコーナー「ひとりごと」にしては長いし、変に理屈っぽいという意見をいただいておりますので、今回は短めにしておきます。昨年度試行的に「楽史(らくし)の集い」というのを二回ほど開催しました。テーマは「手紙の書き方」で、講演のようにこちらがひとりで喋るのではなく、気楽に双方向的なやりとりができる「場」を演出しようと考えたのですが、お出でいただいた方々との掛け合いには大変難しいものがありました。もちろん、テーマの選び方もまずかったのかなあという反省もあるのですが、まさに「言うは易く行うは難し」を実感いたしました。


 とはいえ、博物館を身近に感じていただきたいという強い思いはありますので、今年度も継続というか本格開催を考えています。ただし、「双方向的なやりとり」は一旦棚上げして、「楽史の集い」に「総館長の歴史講座」という冠を載せることとしました。つまるところ、当方が話したいことを勝手に話すというスタイルに、割り切っていこうかと思っています。


 5月24日(土)が、今年度の第一回の「総館長の歴史講座・楽史の集い」となりますが、テーマは「花押(かおう)」を取り上げる予定です。「花押」というのは、まぁいってみればサインですね。古文書講座などでは、さーっと通り過ぎるネタだとおもいますが、これにはこれで深淵?な歴史が潜んでいます。

 昔の人のサインというイメージがありますが、現在でも総理大臣をはじめとして閣僚は決裁に使用していますし、新しく花押をデザインするという現代的なビジネスも結構人気があるようです。

 博物館という施設は、研究にしろ展示にしろ「モノ」に拠ってたつところですが、歴史研究が対象とする概念のなかには、抽象度が高くてなかなか展示などに向かないものの多くあります。まだまだ深掘りする余地がありますが、試行でやってみた「手紙」という素材もそうですし、今回の花押も然りです。福岡の古写真を読み解いていきたいとも考えてますし、選択的夫婦別姓の議論も進んでいますが、そもそも「名前」というのは何なのかといことも取り上げたいと考えています。おっと・・・また長くなってきそうなので、今回はこのあたりにしておきます。ではまた。 

2025年4月25日金曜日

【『ふくおか歴史探検隊』間もなく発売!】マナブンと謎解き探検に出かけよう!


このたび、市史編さん室が作るブックレット・シリーズの新刊、『ふくおか歴史探検隊』が4月30日に発売になります !





新修福岡市史ブックレット・シリーズ』もこれが3冊目。


第1弾は『わたしたちの福岡市―歴史とくらし―』と題して、小学校3年生~6年生で学習する内容(市の様子の移り変わり・身近な地域や市区町村の様子・地域に見られる生産や販売の仕事・人々の健康や生活環境を支える事業・県内の伝統や文化、先人の動き・県内の特色ある地域の様子・我が国の歴史上の主な事象)をベースにしながら、福岡市域のさまざまな事象を1冊にまとめました。





そして第2弾は『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』。

こちらは第1弾とうってかわって、福岡市内の狭い地域をググッとズームアップして、その歴史を掘り下げるというものでした。

この本では埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」を取り上げ、シーサイドももちとその周辺の前史から現代までをマニアックに深掘り。博多・天神とは違う歴史をたどってきたシーサイドももちを見ることで福岡市全体が見えてくるというものでした。



また、こちらのブログでも書籍『シーサイドももち』には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを【別冊シーサイドももち】として紹介していますので、ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。

※【別冊シーサイドももち】はコチラをクリックするとご覧いただけます。






そして3冊目となるのがこの『ふくおか歴史探検隊』。

この本は、小学生の皆さんにもぜひ読んでもらいたい! という思いで作りました。




本の中では「てるお」と「もも」という2人の小学生が、案内役の「マナブン」に連れられて、福岡市内のいろいろな場所へと出かけていきます。

そこで見た何気ない風景の中から「実は外国との交流で繁栄してきた福岡市の歴史が隠されている」ということを、読んでいる皆さんと一緒に解き明かしていくというストーリーです。



歴史探検に出かけるのはこの3人。




「歴史」に苦手意識があり、「覚えることが多そう!」「役に立つの??」と最初は面倒くさそうな様子の小学6年生コンビのてるおともも。




そこへ、歴史を学ぶ楽しさを広めるためにどこからかやって来た「マナブン」が登場し、「なんで歴史を学ぶの?」という2人の疑問に答えるため、わたしたちの身近なところに隠れている歴史のヒントをめぐる探検に連れ出します。







 福岡市を舞台にした2人(3人?)の歴史探検は、古い時代から順に進んで行きます



この本で追いかける「ナゾ」(目次)
Q1 福岡にはいつから人が住んでいるの?[旧石器・縄文時代]
Q2 お米はいつから食べているの?[弥生時代]
Q3 干支はいつから使われているの?[古墳時代]
Q4 昔から外国との仲は良かったの?[飛鳥・奈良時代]
Q5 「コーロカン」って何?[奈良・平安時代]
Q6 四角くて細長い石のナゾ[平安・鎌倉時代]
Q7 海を見つめる巨大な2体の銅像[鎌倉時代]
Q8 博物館だよりのタイトルが「Facata」?[室町・戦国時代]
Q9 「タイコー○○」って何?[戦国~江戸時代]
Q10 どうして長崎に博多があるの?[江戸時代]
Q11 明治になって博多港はどうなった?[明治~昭和時代]
Q12 福岡には「アジア」がいっぱい?[昭和・平成時代]



そして、この本の大きな特徴の一つはそれぞれの「Q」(時代)にまつわる「物」を実物大で掲載しているところです。





たとえばコチラ。

どどーん!


これは、板付遺跡(博多区板付)の水田跡から見つかった「弥生人の足跡」を型に取ったものです。

本の見開きいっぱいの足跡、本の横の長さが30cm弱なので、その大きさはだいたい21~22㎝くらいでしょうか。


こうしてみると、だいぶ小さいですよね。

現代でいうと、小学5年生の男の子、または小学6年生の女の子の平均的な足の大きさが、だいたいそのくらいだそうです。

ということは、てるおやももと同じくらいの足の大きさかもしれませんね!





次はコチラ。

金印は縮小せずにこのサイズ!


福岡市博物館にある、有名な「国宝 金印「漢委奴国王」」です。

教科書などにも掲載されているので、多くの人が見たことがある国宝だと思いますが、その大きさは意外と小さく、1辺が約2.3㎝!

さきほどの足跡と比べてもその小ささがお分かりいただけると思います。

現物をご覧になった方の多くは、まず「思った以上に小さい!」という感想を持つ、でお馴染み(?)の金印も実物大サイズで掲載しています。





ちょっと変わったところでは、コチラも実物大で掲載しています。

さすが大判! その名のとおり大きくて迫力があります。


こちらは天正年間(1573年~1591年)に豊臣秀吉が作らせたという金貨です。

金貨としては世界最大級で、その大きさはなんとタテ約17cm、重さは165g!

黒田長政(1586年~1623年)が息子たちに遺した莫大な軍資金の一部で、贈答品などにも使われたのだそうです。


わくわく!



さて、てるおとももはこのような福岡市にまつわる実際の歴史資料を見ながら、マナブンの案内でそれぞれの「Q(ギモン)」にちなんだ場所や物を追いかけながら福岡の街を探検します。




たとえば「Q5 「コーロカン」って何?」で2人がギモンを持ったのは、地下鉄赤坂駅近くにある「福岡城・鴻臚館前」というバス停です。


バス停には歴史にちなんだ名前がたくさん!




また「Q9 「タイコー○○」って何?」では、早良区原4丁目にある「太閤道通り」の看板から謎解きが始まります。


最近は愛称がある道路も増えましたよね。
そこにも歴史にちなんだ名前がたくさんあります。




※くわしい謎解きの続きは、ぜひ本編でお確かめください!




このように、福岡市内の街角にある何気ない風景がたくさん登場するので、読んでいる皆さんも日常的に接していて、「見たことがある」「聞いたことがあった」、でも改めて考えてみると一体なんのことだろう…? と感じるものもあるかもしれません。


そんな気づきや何気ない「Q」を掘り下げることから福岡市の歴史が見えてきて、歴史というのはそんなに難しいものではなく、意外と身近にあってわたしたちの生活につながっているということが実感できるかも。


この本は、福岡市のまちをてるおともも(とマナブン)の目を通して一緒に探検することで、読み終わった後には皆さんが知っているいつもの風景がちょっと違ったものになる、そんな発見のきっかけになればいいなと思っています。








『新修福岡市史ブックレット・シリーズ③ふくおか歴史探検隊』のご紹介

福岡の歴史のナゾを解き明かし、未来について考えよう!

『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』第3弾となる『ふくおか歴史探検隊』では、2人の小学生「てるお」と「もも」が、街角の何気ない風景のなかに、実は外国との交流で繁栄してきた福岡市の歴史が隠されていることを、読者と一緒に明らかにしていく内容です。

『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』は、福岡市博物館ミュージアムショップのほか、全国の書店やオンライン書店で販売の予定です(発売日:4月30日予定)。


この本のくわしい内容については、コチラをクリックすると目次などの紹介ページがご覧いただけます。




また、『新修福岡市史ブックレット・シリーズ③ ふくおか歴史探検隊』は、福岡市教育委員会が提供する「福岡 TSUNAGARU Cloud」でも公開しています(ご利用に当たっては一部、Googleのアカウントが必要な場合があります)。

地域学習などの教材として、また自由研究や郷土史研究などにぜひご活用ください。




(文責:加峰)