〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~
今年2025年は、かつて百道にあった福岡刑務所が糟屋郡宇美町に移転して60年の節目の年に当たります(誰一人気にしてないアニバーサリーかもしれませんが…)。
跡地は現在、早良区役所や早良市民センター、SAWARAPIA(旧
ももちパレス)などの公共機関が集まる場所となっていますが、ここにはかつて、高い赤レンガの塀に覆われた、巨大な監獄(刑務所)が建っていました。
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(地理院地図を基に作成) |
地図の中の赤く囲われた部分が、かつて
福岡監獄(福岡刑務所)があった場所です。監獄は堅牢な赤レンガの塀に囲まれていて、その南側には看守たちの官舎エリアがありました。塀の
南側中央にあった正門は赤レンガの中の監獄に入るための門ですが、そこから官舎エリアに向かってまっすぐ進んだ先には
全体の表門があり、実際の敷地の入口となっていました。
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(『紀念写真帖』より) 竣工当時、表門付近からみた監獄の様子。 中央に写っているのが監獄の正門です。 |
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かつて表門があったと思われるのはこの辺。 だいたい福岡市地下鉄藤崎駅の2番出口があるあたりです。 写真は、ちょうど猿田彦神社の前から北向きに撮っています。 |
福岡刑務所は大正5(1916)年、当時は松林以外何もなかった百道の地に建てられました。
ですがそんな百道にも徐々に人家や人の往来が増えていき、戦後になると周辺は一気に都市化します。戦後の開発によって西新周辺が副都心化する中で、約50年間そこに立ち続けた赤レンガの刑務所はまちに馴染まない存在となり、昭和40(1965)年、ついに解体されて糟屋郡宇美町の現在地に移されました。
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(宿久晃氏撮影/個人蔵)
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(宿久晃氏撮影/個人蔵)
解体中の福岡刑務所の様子を捉えた貴重な写真。
塀以外もレンガだったことがよく分かります。
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福岡監獄(刑務所)については百道の歴史の一つとして、こちらのブログでも過去4回(!)にわたって紹介してきました。
まずは、福岡監獄が西新町に移ってくる前のお話(第60回)。次は完成した福岡監獄の建物を「建築見学ツアー」としてご紹介したお話(前後編/第62・63回)、それから時代がぐっと下って、戦中の福岡刑務所に収監された韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の没後80年にあわせて行われた、追悼式や記念講演会の様子、そして来日された尹東柱のご遺族と一緒に福岡刑務所跡地を歩いたというお話でした(第102回)。
第5弾となる今回は、刑務所移転60年記念ということで、明治~大正初期にかけてのビックプロジェクトだった福岡監獄の建設について、建設当時の状況をもう少し細かく深掘りしてみたいと思います。
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明治に起こった近代監獄建設プロジェクト
福岡監獄は、明治41(1908)年に工事が始まり、大正5(1916)年に完成しました。この時期は、監獄や拘置所などが全国でつくられており、それらは当然国の事業として行われました。
明治時代、政府は司法制度の再整備を行いますが、これには外交に際して「日本は欧米諸国と対等な文明国であり、近代的な法治国家である」と諸外国にアピールするといった目的もあったといいます。
そこで政府が取り組んだのが、近代監獄の設置です。近代監獄は、西洋の監獄建築を参考にしてつくられており、堅牢で美しいレンガ造りが特徴です。
なかでも明治33(1900)に監獄法が施行され、最初の監獄改築計画としてつくられた長崎監獄(明治40年竣工)、千葉監獄(明治40年竣工)、金沢監獄(明治40年竣工)、奈良監獄(明治41年竣工)、鹿児島監獄(明治41年竣工)は、「明治五大監獄」と呼ばれます。
これらの監獄は象徴的な正門や一部の建物が現在でも残されていますが、とくに旧奈良監獄は現在でも唯一原形を保った形で保存されています。現在は耐震改修工事のため見学はできませんが、2026年春には星野リゾートによってホテル・ミュージアムとして生まれ変わる予定だそうです。
これら「明治五大監獄」を設計したのは、当時司法省営繕課にいた司法技師の山下啓次郎と太田毅でした。山下も太田も帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)を卒業して司法省に入庁したエリート技師です。
2人は8歳ほど年の差がありますが(山下の方が年上)、どちらも日本銀行本店や東京駅の建築などで知られ「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の弟子でした。また、山下はジャズピアニストとして活躍されている山下洋輔さんの祖父に当たります。
一方の福岡監獄は、先ほどの明治五大監獄の後、第2期の監獄改築計画としてつくられた監獄です。ちなみに同じ第2期として建設が計画された監獄は、甲府監獄(山梨県/明治45年竣工)、秋田監獄(秋田県/明治45年竣工)、安濃津監獄(三重県/大正4年竣工)、豊多摩監獄(東京都/大正4年竣工)がありました。
福岡監獄の設計者は?
先ほど「明治五大監獄」の設計は山下・太田が手がけたと言いましたが、では福岡監獄を設計した人物は一体誰なのでしょうか?
これは現在のところ正確には分かっていません。
というのも、福岡監獄に関しては設計図面などの詳細な資料が見つかっておらず、具体的な設計者名の特定には至っていないのです。
ですが、まったくヒントがないわけではありません。当時、監獄や裁判所などの司法に関する建築物の設計は、司法省内にあった「営繕課」が担っていました。営繕課には司法技師と呼ばれた高等専門技術者が在籍しており、司法施設の設計や建築監督などの業務を行いました。
福岡監獄の建設に当たっては、建築現場で実際に指揮を執っていたのは山下ではなく、その部下の金刺森太郎という人物だったことがわかっています。
金刺は、上司である山下や太田など名だたるエリート官僚たちとは違い、静岡の旧制韮山中学校を卒業後、各地の建築現場で地道に修業し、30歳を超えてようやく技手として司法省に入庁(明治29〈1896〉年)した、言わば「たたき上げ」の人物です。その金刺が入庁からさらに十数年という長い下積みを経てようやく技師に昇進し、初めて担当したのが福岡監獄の設計監督でした。
それでは金刺が福岡監獄を設計したのかといえば、そうとも言えないようです。
福岡監獄の建設が始まった明治41(1908)年前後、司法省営繕課にいた技師は、山下と太田の2名のみでした(太田は明治39年まで)。この頃の金刺の役職はまだ「技手」で、あくまでも技師の補佐役です。
金刺は技手から技師への昇進と同時に、福岡監獄建設現場への在勤を命じられています。福岡監獄は同年6月には建設が始まっていますので、金刺が技師として着任する前から補佐的に設計に関わった可能性もありますが、その場合でも主な設計者は上司であった山下や太田と考える方が自然でしょう。
苦労人・金刺森太郎のその後…
実は金刺が福岡にいたのはほんの短い期間だったようなのです。金刺は福岡監獄の現場に着任してそれほど経たないうちに、今度は大阪控訴院大阪地方裁判所管区の大阪区裁判所の現場への勤務を命じられています。記録によれば明治43(1910)年6月にその辞令が出ていますので、わずか1年半ほどで福岡を離れたであろうということがわかりました。
金刺はこの後も数年ごとに大阪→神戸→名古屋→京都→東京→大阪・名古屋(兼務)とくり返し異動を命じられ、各地の監獄や地方裁判所などの建築に従事しています。
とりわけ有名なのは、2024年に放送されたNHKの朝ドラ「虎に翼」のロケ地としても有名になった「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」。これも金刺と山下の設計による建築物です。この建物は現在でも名古屋市市政資料館として使われており、建物だけでなく図面資料なども保存され、一般に公開されています。
名古屋控訴院地方裁判所の建物は、金刺にとって苦労を重ねた建築技師人生の集大成ともいえる建築物であり、苦労のすべてが詰まった最高傑作ともいえるでしょう。
金刺がこの大仕事を手がける前に福岡監獄建設の任に就いていたと思うと、なんとも感慨深いものがあります。
レポ・福岡監獄の建設現場から
さて話を福岡監獄に戻しましょう。
福岡監獄の工事が始まった頃は他の監獄建設も同時に計画が進んでいたため、営繕課でも明治42(1909)年からはそれまで5名だった技手が16名に増員されました。
増員された技手たちのうち、16名中9名が金刺と同じように全国各地の建設現場への勤務を命じられています。福岡監獄にも中村善兵衛と重松勘之助という2名の技手が、金刺と同じタイミングで福岡の現場へ配属されたようです。
一方、金刺が福岡を去ってすぐ後、本格的な工事が始まっていた明治43(1910)年8月に、福岡監獄の建設現場を取材した記者がいました。
それは、福岡日日新聞社にいた斎田耕陽という記者です。
斎田は、御笠村阿志岐(現在の筑紫野市阿志岐)の出身で、群馬や静岡の学校で教員を勤めた後、明治39(1906)年に福岡日日新聞社に入社し記者となりますが、その後昭和2(1927)年には同社の初代事業部長となった人物です。
そんな後には出世する斎田ですが、福岡監獄建設現場の潜入記事を書いた当時はまだ入社4年目。「多加羅」という筆名で、文教担当として記事を書いていました。
記事ではそんな多加羅こと斎田耕陽が建築中の福岡監獄に潜入し、その様子を3回にわたって細かくレポートしています。
さすが新聞記者、前々から看守長とはすでに「顔馴染」になっていたようで、その看守長に先導され、さっそく「工務室」で「重松主任技手」と「森技手」という2人の担当者を紹介されています。この「重松主任技手」とはおそらく金刺とともに福岡に赴任していた重松勘之助で、「森技手」とは同じく司法省営繕課にいた森兵作という技手だったようです。
斎田が取材した時点での建設状況は、正門前の看守長官舎6戸と、西側看守官舎2棟11戸、さらに受刑者が作業するための工場1棟が完成し、中央見張所を含む監獄の中央部分はまだ建設中といった状況でした。
また、記事には看守官舎の予定地に仮設した監房9棟のうち7棟は移転前の須崎裏本監から移築している、と書いています。受刑者のうち約700名をそこに収監し、残りは建設途中の中央見張所付近の廊下を仮監房として、そこに収監していたようなのです。
斎田はさらにこの取材で当時の建設予定平面図も見せてもらっています。しかし、福岡監獄の建設は途中何度か計画が変更されているため、この時の取材で斎田が見せてもらった図面と最終的な出来上がりとは少し違っています。
細かい部分の違いはもちろんありますが、大きく違うのは次の2点です。
こちらが実際に完成した配置図。
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(『紀念写真帖』掲載の平面図を基に作成)
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(『紀念写真帖』掲載の平面図に記事の内容を反映)
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このように、中央見張所より手前の部分には本来「拘置監」と「女監」という施設ができるはずでした。拘置監とは、刑事被告人や死刑の言い渡しを受けた者を拘禁する場所で、女監とはその字の通り女性受刑者のための監獄です。
ところが建設途中で青年監(一般の受刑者よりも若い受刑者を収容)と、幼年監(少年犯罪者を収容)を併設しなければならなくなり、計画は変更に…。
結果、拘置監は土手町にあった福岡区裁判所敷地内に「福岡監獄土手町出張所」(現在は中央区役所がある場所)を建て、女監に収容予定の女性受刑者たちは、久留米にあった分監(現在は福岡刑務所久留米拘置支所)に移されることになりました。こうした計画変更は、最終的に工期が延びることになった一因でもありました。
斎田はさらに実際の建設現場の様子も細かく見聞きし、レポートしています。こちらは、斎田が取材した福岡監獄の建設に携わっていた作業者の内訳です。
木工(大工) 106名
木挽き 49名
鍛冶 42名
石工 52名
畳製造 5名
レンガ製造 111名
レンガ積み 35名
左官 13名
その他人夫 330名
雑役 32名
合計 775名
※「その他人夫」のうち、約100名は砂取り、その他は各所手伝い、運搬、地均しなど。
※「雑役」は、炊事・掃除等も含む。
※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成
しかもこれらの作業を担ったのは、実際そこに収監されている受刑者たち…そう、この775名の作業者は、全員が受刑者というわけです。
とはいえ、そう都合よく大工仕事に経験がある受刑者がいるわけでもありません。それはそうですよね、大工仕事のために監獄に入ったわけではなく、たまたま囚人が大工だっただけで…。
そこで当初は、なんとこの工事のためにわざわざ長崎監獄から大工の専門知識がある受刑者を福岡監獄に移して作業に当たっていたのだそうです。
そこまでして…という気もしなくはないですが、このように監獄建設の際に刑務作業の一環として受刑者に建設作業を担わせるというのは、当時営繕課長だった山下啓次郎の意向だったといいます。何も福岡監獄に限った話ではなく、当時多くの監獄はこうしてつくられていました。
斎田が取材した時点では、もうすべて福岡監獄の受刑者で仕事を回していたようですが、大工仕事担当の106名のうち、元から大工として仕事をしていた者(あるいはその知識があった者)はわずか10名程度。残りはみな先輩受刑者が指導して「全くの素人を漸次監内で養成した」のだとか…。
この記事を読んで「大工はともかく、それは…」と思ったのは、職人の中の「鍛冶」は、監獄で使う金物の一切をつくっていたそうで、当然監獄の錠前も作っていたそうなのです。斎田もさすがに「"自縄自縛"の語も思ひ出されて変に感した」と率直な感想を書いています。そりゃそうだ…。
とはいえ、作業をする受刑者たちは思いのほか(などと言ってはいけませんが…)真面目に監獄建設に取り組んでいたようです。斎田の取材に同行した記者は「
娑婆におってこれぐらいに勉強すれば、悪事をなさなくとも立派な生活が出来ますのに」とつぶやいています(といっても脱走騒ぎがないわけではなかったようです…くわしくは
コチラでご紹介しています)。
もちろん彼らを指導・管理するのは看守たちです。当時福岡監獄に配属されていた職員の内訳は下記のとおりでした。
典獄 1名(毎週3日勤務)
第2課長 1名(毎日出勤)
看守長 2名
部長 6名
看守 60名
主任技手(看守長兼務) 1名
第三課分遣看守長 1名
技手 2名
工手 1名
看守 1名
雇書記 1名
第一課・第三課事務看守 3名
合計 80名
※ 典獄とは現在の刑務所長を指す。
※ その他の役職は記事に記載された通り。
※ 主任技手(看守長兼務)は重松のことと思われる。
※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成
現在の刑務所の看守職員数は正式には公表されていませんので比較はできませんが、800人近くの受刑者に対して80人の看守というのは、さすがにちょっと心許ない気もしますよね(しかもほとんどが外で建築作業をしているという…)。
こうして監獄建設の様子を隅々まで見学した斎田は、最後に工事中の建物の2階に上がらせてもらい、次のような感想で記事を締めくくっています。
工事中の第二監の二階の棟に登臨した時は新に一種の感が浮んだ。見渡せば海の中道、志賀、残の島(注:能古島)、袖浦の碧水を隔てて皆一望の中に入る。更に南に向き反れば、門前近く猿田彦大神の社に対し、やや距れて稲荷山の涼し相な風景も呼応の間に見えて居る。東は緑滴るばかりの松の梢を天上から眼下して脚下に千眼寺の瓦を看(み)、西は室見の清流を隔てて愛宕の山を仰ぎ見る。知らず愛宕山の頂辺に立ち、福岡新監獄の壮観を下瞰しつつ「大丈夫当(ま)さに此に居るべし」と壮語して居る新将門的快男児ありや否や。
※(注)は引用者、( )内のひらがなは記事中にあるフリガナ。
「新築中の福岡監獄(三)」より(明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面
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いかがだったでしょうか。
今回は福岡監獄の建設当時の様子についてご紹介しました。
…さて、賢明な読者の皆さんはすでにお気付きでしょうが、来年は福岡監獄竣工110年の節目に当たりますね!
まだまだ分からないことが多い福岡監獄建設史ですが、来年のアニバーサリーイヤーに向けて、今後もこうした細かい情報を拾い集め、百道の歴史の1ページとして福岡監獄建設の謎について引き続き追いかけてみたいと思います! がんばります!
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(『紀念写真帖』より) 竣工した大正5年の時の看守や職員たちの集合写真。 |