2024年11月16日土曜日

【別冊シーサイドももち】〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。










〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~


先日、10月20日(日)の午前中、百道浜の海岸ではこのようなイベントが行われました。


\\ どすこいクリーンアップ2024 //


なんて天才的なネーミング!  そして破壊力!!

これは一度聞いたら忘れられませんよね。


こちら、日本財団と湘南・江の島で19年ビーチクリーン活動を続けられているNPO法人 海さくらさんが中心となって進めておられる「海と日本PROJECT」の一環として行われた、砂浜の清掃活動なんです。


当日は大嶽部屋のお相撲さんたちが大勢参加され、一般参加者の方々、そしてゲストのサザエさん・波平さん・海平さんと共に、シーサイドももち海浜公園百道浜エリアの海岸のビーチクリーンを実施。

この日の参加者はなんと400名にものぼったとか!


実はわたしはその日、同時刻に別のところへ取材に行っており(こちらはまた後日…)、気になりながらも残念ながら参加は叶わなかったのでした…むむむ、無念…。

サザエさん×お相撲さんが百道の浜にそろい踏みする…そんな夢のような光景が繰り広げられたこの日の百道海岸。行かれた方は幸運でしたね!(もちろん海のクリーンアップが第一目的!)

ふたたび百道で開催されることを切に祈っています。


ちなみに当日の様子は、海さくらさんのブログでたくさんの写真とともに紹介されていますので、ぜひこの夢の共演をご覧いたければと思います!(奇跡的な写真が満載です)


NPO法人 海さくら 目指せ!日本一楽しいゴミ拾い!





さてさて、ではなぜ「サザエさん×お相撲さん」の組み合わせが百道にとって夢のような組み合わせなのか??


サザエさんは言わずもがな、作者の長谷川町子先生が百道海岸でサザエさんの構想を練ったという話は有名かと思いますが、お相撲さんも百道にとっては忘れてはならない存在です。

それは、百道の海岸沿いに林立していた海の家や旅館は、昭和30年代以降は相撲部屋が毎年11月に福岡市で開催される九州場所のための宿舎として利用していたからなんです。


現在でも10月末頃からまちなかで出会うラフな恰好のお相撲さんたちの姿と鬢付け油の匂いは晩秋の福岡の風物詩ですが、かつては百道がまさにそのメッカともいえる時代があったんですね。

今まさに十一月場所真っ最中のこの時期(明日が折り返しの中日ですね)、百道とお相撲さんにまつわるあれこれをご紹介したいと思います。


* * * * * * *


九州場所のはじまりと宿舎

相撲興行は福岡でも江戸時代から行われていました。

明治時代以降は東京に国技館が建ち、そこを常設小屋として行われる東京相撲、そして大阪相撲などが中心となり、相撲興行は盛んになっていきます。

当時の相撲興行は本場所2回でしたが、本場所以外にも地方巡業が行われており、福岡にも相撲がやって来ていました。


明治時代の福岡での相撲興行は大浜町の浜、大正時代になると博多中島町新地の埋立地などを会場として、そこに仮小屋を建てて行っていたようです。

巡業の時期になると大勢の力士が来福し、この時代は市内の旅館に分宿していたそうです。


(福岡市博物館所蔵)
大正時代の絵葉書。相撲がモチーフになった菊人形です(新柳町)。


昭和になると東京の大相撲団体が統合、福岡でも「地方本場所」としてたびたび興行が行われていました。

福岡での相撲人気は高まり、西日本鉄道をはじめとした地元の有志の尽力によって、昭和30(1955)年にはこれまでの地方本場所ではなく、本場所と同様の取り組みを行う「九州準本場所」の開催が実現。

これは同年に天神に完成した「福岡スポーツ・センター」のこけら落とし興行となりました(現在のソラリアプラザの場所です)。


この流れで、さらに「準本場所を本場所に昇格させよう」という動きが財界を中心に盛り上がり(当初相撲協会は難色を示していたそうですが)、昭和31(1956)年にはついに福岡での相撲興行が大相撲本場所となることが決定しました(実際の興行は昭和32年11月~)。


(福岡市博物館所蔵)
昭和32(1957)年の大相撲九州場所の様子。
中央の建物が福岡スポーツ・センターです。



昭和30(1955)年の準本場所では、本場所と同様の取り組みが行われたため、力士たちも地方巡業の時よりも大人数、そして長期間滞在する必要があり、また部屋ごとに稽古ができる広い場所も必要となり、これまでのように旅館に投宿するというわけにはいかなくなります。

そこで、ほとんどの部屋は会場から近い市内の寺社を宿舎とするようになりました。


準本場所開催当初の宿舎

 ・立浪部屋/聖福寺(御供所町)

 ・二所一門/萬行寺(祇園町)

 ・春日野一門/日蓮聖人銅像護持教会(東公園)

 ・花籠一門/香正寺(薬院)
※ 香正寺の実際の住所は警固。



百道の海岸はお相撲銀座

当初は寺などに宿舎を構えていた各部屋ですが、それぞれの事情でその場所を変えていき、百道を宿舎とする部屋も徐々に増えていきました


それでは実際百道のどこに、どのくらいの相撲部屋の宿舎があったのでしょう?


実は相撲部屋の地方宿舎についてはまとまった形での正確な記録がほとんどありません。

それを調べるためには当時をご存知の方々の記憶や、当時発行された新聞や雑誌の記事などに頼るしかないのですが、それでもいつからいつまで、どこにどの部屋が、ということはなかなか全貌を正確に把握することは困難です。

それでも細かい記事をなるべく拾い集めて集積した結果、なんとなくですが当時の様子が分かってきました。



まずは宿舎が集まっていた場所

これは海の家や旅館を拠点にしていたということからも分かるように、各部屋の宿舎は当時の海岸線に沿うような形で並んでいました。


(地理院地図Vectorをベースに作成)
この赤い丸のエリアに宿舎が並んでいたようです。


百道に宿舎を置いたことがある部屋は全部で10部屋。もちろん同時にではありません。

同時期での最大は昭和45(1970)年前後で、この時は5つほどの部屋が百道を宿舎に選んでいて、百道は「お相撲銀座」や「相撲村」とも呼ばれていました。



こちらはそれを分かりやすくするため、地図に落としてみたものです(建物も入れ替わりがあり、やや時代が混在しているものもあります)。


(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


百道の宿舎としては「ピオネ荘」や「平戸屋」などは名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、なかにはかつて前衛美術集団・九州派がアトリエとしていた「百道屋」も相撲部屋の宿舎として利用されたことがあったんですね(九州派が使っていたのは1960年代なのでこれより少し前ですね)。


また、片男波部屋が利用していた「設備屋」は、百道海水浴場(大正7年~昭和50年)で最初期にできた古参の海の家なのですが、昭和48(1973)年に売却広告が出ていることが分かっていますので、設備屋としての最後の時期に相撲部屋を受け入れていたことが分かります(その後、西南学院が購入して跡地に研修所を建てました)。


設備屋についてはこちらの過去記事をご覧ください。



こうして見ると、二所一門(二所ノ関・花籠・放駒・二子山・片男波・高田川)と時津風一門(伊勢ノ海・鏡山・立田川)が百道を拠点としていたことがよく分かりますね。




花籠部屋とピオネ荘

百道に相撲部屋がやってきた、その最初の部屋は花籠部屋でした。

花籠部屋は、元大ノ海が二所ノ関部屋から独立する形で創設した部屋です。大ノ海は引退後に8代・芝田山を襲名して正式に芝田山部屋としてスタートしますが、その後昭和28(1953)年に10代花籠と名跡を交換して11代花籠となり、花籠部屋が誕生しました。


さきほどもご紹介したとおり、当初花籠部屋は薬院の香正寺を宿舎としていました。

花籠部屋が香正寺から百道のピオネ荘に移ったのは昭和34(1959)年

これは所属力士が増えて香正寺に入りきれなくなったためだそうですが、そんなとき花籠部屋の幕内力士だった若乃洲(わかのしま)が福岡出身で、そのお兄さんがパン屋さんを経営されており、お兄さんとピオネ荘のご主人が旧知だった関係でピオネ荘を宿舎にと紹介されたのだそうです。


花籠部屋は当時、横綱・若乃花(初代。「若貴」でお馴染み若乃花・貴乃花兄弟は甥に当たる)がおり、また若乃花を入れて当時「花籠七若」といわれた若ノ海・若三杉・若秩父・若ノ国・若駒・若天龍など将来有望な若手が活躍。若乃花引退後(二子山を襲名し二子山部屋を創設)には、大関・魁傑(のちの放駒親方)や横綱・輪島を出すなど、とても活気のある部屋でした。

また、ほかにも引退後に俳優やコメンテーターとして大活躍した龍虎が所属していたことでも有名です(余談ですが、龍虎といえば『暴れん坊将軍』よりも個人的には『料理天国』の試食係ですね~)。




百道に来た当時、花籠親方や若乃花は新しい宿舎であるピオネ荘と百道を絶賛していたようです。

まず百道という場所は環境がよく空気がきれいで、位置的にも会場(天神)からは大通り1本で繋がるので不便がなく、かといって歓楽街である中洲からは程よく遠いため気軽に「ちょっと一杯…」と出かけられないのが良いのだとか…。


また若乃花はインタビューで「こんないいところはちょっとないな。空気はいいし、景色はすばらしいし、遊ぶところも遠いし、相撲とりにはもってこいだよ。いまにね、この海岸にほかの部屋もずらりと並ぶかもしれませんよ」と、のちの「お相撲銀座」を予言するような事を語っていました(『相撲』昭和34年8月号)。



力士たちも時間が空くと浜辺でボートに乗ったり海釣りを楽しんだり(若ノ海関は自前の高価な釣り竿を持参していたのだとか)、また浜辺をランニングしたりと、百道での滞在を満喫していたようです。


ただ難点もあったようで、ある年には折柄の荒天で大波が打ち寄せたため、海岸に面していた稽古場の土俵が半分近く削り取られてしまったのだとか。

これは海辺ならではの珍事件でしょうね…。




また、百道に相撲部屋ができ始めたのは昭和34(1959)年からですが、同じ年、もう一つ百道にできた施設があります。


それは、西鉄ライオンズ寮です。


それまで唐人町にあった寮がこの年に百道に新築移転。ここは一軍の寮で、雨天練習場なども備えた立派なものだったといいます。


ライオンズ寮は、この「お相撲銀座」のすぐ裏手にありました。


(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


これだけご近所なのですから、当然力士たちとライオンズ選手との交流も多かったようです。




水不足に苦しんだ昭和53年

昭和53(1978)年は福岡市を大渇水が襲った年でした。

前年の7月以降、雨量が極端に減り、年が明けてもその傾向は変わらず、梅雨も早々に明けてしまい、まとまった降水量がないまま、福岡市はこれまでに例を見ないほどの水不足に陥ります。


これにより、5月からは給水制限も始まりました。

当初5日間だった制限は実施されるたびに7日間、10日間、15日間と徐々に長くなり、9月にはなんと61日間も連続して給水制限を行う事態に至ったのです(第4次給水制限/10月31日まで15時~21時の6時間)。


(『福岡市史』第12巻 昭和編続編四〈1994年、福岡市〉より)
共用栓による緊急給水の様子。


この年の九州場所は11月12日~26日(この時はもう会場が九電記念体育館に移っています/昭和49年~)。

通常、先発隊も含めると2週間ほど前から現地入りするのですが、この水不足によって例年より1週間~10日ほど福岡入りを遅らせたのだそうです。

それでも、いざ福岡入りすると「風呂に入れない」「チャンコが作れない」「洗濯ができない」など、水不足の影響が出はじめます。


九州場所が始まった当初は福岡市に集中していた宿舎ですが、この頃には郊外にその拠点を移している部屋もありました。佐渡ヶ嶽部屋(筑紫野市)と高田川部屋(春日市)の宿舎はそれぞれ市外にあったため、この難を逃れています

また、当時31あった部屋のうち19部屋は宿舎に井戸を掘るなどの策が功を奏し、あまり不自由はなかったようです。


それでももちろん大きな影響を受けた部屋もありました。


二所ノ関部屋と九重部屋はそれまでお互いに経費を負担し合って近くの銭湯と契約して利用していたものの、福岡入りが1週間遅れたのに料金は昨年の2倍近くを請求される始末

仕方ないのでそれぞれに風呂場を新設することになったそうです(でも銭湯のような広さがないので、あまり経済的ではなかった模様)。

これは極端な例ですが、他でも「滞在期間が短いのに風呂屋の料金は据え置き、実質の値上げ」となった部屋は多かったようです。



そんな中、「一番の被害者」と言われたのが、当時百道に宿舎を構えていた花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋の3部屋でした。

他の部屋のように井戸を掘ろうにもそこは海辺。掘っても出てくるのは潮水ばかりで使えません。

そこで考えられた策が貯水槽の設置でした。

花籠部屋では4トンの水が溜められる貯水槽を浜に埋め、さらに1トンの給水タンクを追加、二子山部屋では平戸屋の屋根に1トンの貯水槽を設置しました。

しかし、花籠部屋はまだ真水を貯水していたようですが二子山部屋は貯水した水も海水…。立田川部屋にいたっては貯水槽がなく、120リットルのポリバケツに水を溜めて生活したそうです。



この年の九州場所担当理事だった時津風親方はこの「水不足場所」を終えてのインタビューに、

「使い捨て時代といわれるように、最近の日本人は物を粗末にしてきた。水道の水にしても当然出るものと思うようになっている。だが、今回このような深刻な水飢饉を経験して、いかに物を大切にしなければならなかったかが、わかった。若い力士達に節約、倹約の美徳、重要性を教えてくれた。」

とコメント。さらに、

「それにこれほど水に困っているところに大所帯で乗り込んだのに悪感状を抱くどころか〝もっと早く来てけいこを見せてくれ〟とおっしゃって下さる市民の方が多かった。この点大相撲に対する温いご支援の気持ちがわかりうれしかった」

という談話を残して福岡を後にしました(『相撲』昭和53年12月号)。




力士たちに愛された百道

百道は力士たちにとても愛され、絆も大変深かったようです。

その証拠に、かつて花籠部屋に所属した力士が、のちに親方となって独立・創設した二子山部屋放駒部屋引き続き百道の旅館を宿舎としていて、両部屋とも百道とは長い付き合いとなっています(二子山部屋は平戸屋、放駒部屋は花籠部屋消滅後にピオネ荘を利用)。


百道で一番有名だったであろう宿舎・ピオネ荘の主人である柴田さんは、なかでも相撲界とは深い付き合いがありました。

百道で最初に宿舎として相撲部屋に宿を提供したのはもちろんですが、花籠部屋に所属していた大関・魁傑が引退を決め行われた断髪式では柴田さんも会場に招待され、マゲにハサミを入れたのだそうです。

魁傑はのちに17代・放駒を襲名し放駒部屋を創設。花籠部屋のあと、ピオネ荘を宿舎として利用しています。

そんな柴田さんは新人をスカウトして放駒部屋に紹介したこともあったのだとか。昭和59(1984)年に初土俵を踏んだ鶴ノ里(最高位は三段目13)は、中学3年生のときに親方に会わせると柴田さんが口説き落としたのだそうです。


また、昭和37(1962)年の部屋創設当初から平戸屋を宿舎としてきた二子山部屋は、ずっと懇意にしてきた平戸屋のご主人が昭和53(1978)年9月に亡くなると、秋場所中にもかかわらず二子山親方(初代・若乃花)が飛行機で急きょ来福。なんと葬儀委員長を務められたのだそうです。

その後、九州場所で力士たちが来福した11月6日には別途法要が営まれ、また若乃花(二代目)は横綱になって初めての九州場所でもあったことから「オヤジさん楽しみにしてたのにな…」と故人を偲んだといいます。


いずれも長い時間をかけて築いたであろう深い信頼関係が分かるエピソードです。


* * * * * * *


いかがだったでしょうか。

シーサイドももちの前史としての百道海岸はやはり百道海水浴場が中心になりがちなのですが、その海水浴場が下火になってからは海とお相撲さんの姿が新たな百道の風物詩となりました。


最初に言い訳したとおり、相撲の地方場所はまとまった形では詳細な記録がないため、とくに宿舎の話などは採集するのはなかなか骨が折れる作業でした。

まだまだ分からないことや調査しきれなかった部分の方が多いのですが、とはいえ昭和30年・40年代以降の事ですので、きっとご記憶にある方、事情にお詳しい方も大勢おられると思います。

調査は継続していますので、百道と相撲部屋についてご存知の方がおられましたら、どんな小さなエピソードでも結構ですので、ぜひ情報をお寄せいただければ幸いです!



錦絵「式守伊之助・不知火・鏡岩・浦風」
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」)



【参考資料】

『相撲』(ベースボール・マガジン社)
・昭和34年12月号(126号) p.60「特集第三話 精魂つきた?若乃花」 p.109「[相撲部屋聞き書き帖 二所・花籠部屋]ピオネ荘はいいところ」 グラビア「海のある部屋(花籠)」
・昭和36年12月号(153号) p.109「[相撲部屋聞き書き帖]二所ノ関 花籠 佐渡ヶ嶽」 p.151「[宿舎訪問]博多の宿かけある記 花籠」
・昭和43年12月号(244号) p.116「ルポルタージュ ボクはピオネ荘」
・昭和46年5月号(275号) p.138「全国相撲場案内 あなたも相撲が見られる!/福岡場所(十一月) 九州は相撲王国 十一月場所の熱狂/百道の海岸はお相撲銀座」
・昭和50年1月号(326号) p.84「[いつ どこで だれが なにを]花籠部屋」
・昭和52年10月号(364号) p.72「十一月場所宿舎割表」
・昭和53年12月号(380号) p.74「窮水(九州)場所 水を相手に大相撲」 p.102「[いつ どこで だれが なにを 相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋」
・昭和54年7月号(388号) p.140「魁傑がマゲと別れた日…」
・昭和54年11月号(392号) p.107「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和54年12月号(393号) p.117「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和55年12月号(406号) p.124「[相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋」
・平成2年12月号(534号) p.145「[相撲部屋聞き書き帖]放駒部屋
・平成6年3月号(576号) p.70「[幕下以下各段報告 平成6年初~6年春場所」
・平成6年11月号(584号) p.61「水がない?! 九州場所を目前に断水続く福岡」

・『西日本新聞』(西日本新聞社)
・昭和34年10月26日 朝刊7面「若乃花が一番乗り 九州本場所入りの大相撲一行」
・昭和34年10月29日 夕刊3面「力いっぱい猛げいこ 大相撲九州場所まであと10日」
・昭和34年11月3日 朝刊8面「大相撲けいこ場拝見 九州場所/花籠部屋」
・昭和34年11月6日 夕刊6面「土俵の王者と陸上のチャンピオン」
・昭和34年11月14日 朝刊7面「[大相撲九州場所から―六日目―]横綱には13日の金曜日 花籠部屋は魚釣りの大流行」
・昭和35年11月1日 朝刊7面「[どんたく]園児と若乃国関」
・昭和35年11月6日 朝刊12面「[九州場所けいこ場めぐり2]花籠部屋」
・昭和36年11月6日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関、佐渡ヶ嶽、花籠」
・昭和36年11月8日 夕刊3面「[花時計]」
・昭和37年11月2日 朝刊8面「博多の秋楽しむ関取り 高まる相撲気分」
・昭和37年11月5日 朝刊8面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関部屋/花籠部屋]」
・昭和37年11月7日 朝刊13面「[九州場所けいこ場めぐり3]伊勢ノ海部屋」
・昭和38年11月4日 朝刊10面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和38年11月10日 朝刊5面「おすもうさんの一日」
・昭和39年11月2日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和42年11月8日 朝刊7面「[話題の力士]横綱陣」

・『西日本スポーツ』(西日本新聞社)
・昭和45年11月10日 3面「[九州場所に燃える4]」
・昭和47年11月4日 3面「[博多の貴・輪]土俵の鬼も愛児にゃコロリ」
・昭和47年11月5日 3面「[博多の貴・輪]輪島 タブーなんか破っちゃえ 一石二鳥?の早朝ランニング」
・昭和49年11月5日 3面「[九州場所 話題の力士1]若三杉・荒瀬 筋金入りの小結」
・昭和52年11月5日 2面「[けいこ場往来]」
・昭和52年11月6日 2面「[けいこ場往来]〝辛抱〟してまーす 外人力士」

・「大相撲十一月場所」(福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来』2012年、福岡市)

・『福岡市史』第十二巻 昭和編続編(四)(1994年、福岡市)

・福岡市水道百年史編纂委員会編『福岡市水道百年史』(2024年、福岡市水道局)

・ウェブサイト
 ・日本相撲協会公式サイト https://www.sumo.or.jp/
 ・相撲部屋興亡史(大相撲パラサイト) https://sumopara.jimdofree.com/
 ・どすこいビーチクリーン2024 https://umisakura.com/doskoi/f2024/


シーサイドももち #百道海岸 #大相撲十一月場所 #九州場所 #花籠部屋 #二子山部屋 #ピオネ荘 #平戸屋 #海の家 



Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 


※ 図中の誤字を修正しました(2024.11.19)

※ 一部注釈を加えました(2024.11.20)

2024年11月12日火曜日

The 36th Annual Exhibition of New Acquisitions: Fukuoka's history and its people's lives

PeriodOctober 9th  December 22nd, 2024
Venue: Feature Exhibition Room 1 - 4
Opening Hours: 9:30am - 5:30pm (last admission: 5:00pm)
Closed: Mondays
Charge:
 Adults: 200yen
 High school and University students: 150yen
 (No charge for Junior High School Students and younger)


Fukuoka City Museum has continued to collect artifacts in the fields of archaeology, history, folklore and art since 1983, seven years before the museum opened. Since then, the museum has collected more than 190,000 items through donations, deposits and purchases.

In order to ensure that this precious collection is passed on to future generations, and that it is effectively used for exhibitions and study, the museum researches and organizes all newly acquired objects and publishes an annual list of them in the "Collection Catalog."  The museum also makes this available as a searchable database on its website. It holds the “Annual Exhibition of New Acquisitions” to provide an opportunity to learn about how the museum's collection is procured and effectively utilized.

This year, the 36th edition of this series includes approximately 80 of the 2,548 items collected in FY 2021.

Exhibits are presented in four categories:

1. History and Records of Fukuoka


Helmet and armor with a five-piece cuirass (torso armor)(17th century)
This armor was inherited from the Ogo family, a key vassal of Kuroda Tadayuki, the second ruler of the Fukuoka domain. The helmet is decorated on both sides with the wings of a hawk with the crest of the Ogo family on them, while the front is decorated with a military fan with a sun disk on it.




Tiered vermilion-lacquered box (20th Century)
This set of boxes, used for displaying food, was exhibited at the 13th Kyushu-Okinawa Prefectural Alliance Exhibition held in Fukuoka City in 1910. They are made using the traditional Okinawan technique of Tsuikin, in which lacquer is colored and molded to create a three-dimensional form.


2. Modern Fukuoka


Photograph of post-war Fukuoka City taken between 1946 and 1947.
The photographer was an American who worked for an educational institution of the U.S. military. The photographs show the urban area with its rubble after the war.


3. Life and Festivals


Porcupinefish (20th-21st century).
A stuffed porcupinefish (a type of pufferfish) used to ward off evil spirits on Genkai Island in Fukuoka City.



Okiage, a layered cloth picture (20th century).
Self-portrait created using the Hakata okiage technique in which the underpainting is layered with cloth or cotton to create a three-dimensional pattern.


4. Entertainment and Art

Furisode (long-sleeved kimono) ,worn at weddings, tea ceremonies, flower arrangement lessons, and other celebratory occasions. This one is decorated with cranes, pine trees, chrysanthemums, and waves patterns. (20th century)


Painting of Yamakasa float by Mitoma Shusei (1822)
This is a painting of a decorative float used in the Hakata Gion Yamakasa festival.
This Yamakasa float depicts the story of the extermination of bandits in the ancient Chinese state of Yue.

There is a wide range of items on display, representing Fukuoka's history and lifestyle. These include: armor and helmets used by samurai in the Edo period; beautiful calligraphy and paintings; and amazing photographs and postcards that tell Fukuoka's story. Visitors can also see an example of the costumes and artifacts used in traditional festivals. In addition, a puppet used by Komatsu Masao, the famous comedian from Fukuoka City who passed away in 2020, is exhibited for the first time.

Puppet used by Komatsu Masao (1942-2020), a famous comedian from Hakata.



We would like to express our sincere gratitude to all those who have provided valuable items for this exhibition. We trust that these will stimulate visitors' interest in the history of our city and the daily lives of Fukuoka's people over the years.

2024年11月1日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈096〉別冊シーサイドももち的にG1(『ガメラ 大怪獣空中決戦』)を見てみた ―屋根に穴があいた福岡ドーム(その2)―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。










〈096〉別冊シーサイドももち的にG1(『ガメラ 大怪獣空中決戦』)を見てみた ―屋根に穴があいた福岡ドーム(その2)―


このブログの〈092〉では、「シーサイドももち」にできたばかりの福岡ドーム(現在の「みずほPayPayドーム福岡」)の屋根に穴が空いた話を紹介しました。



といっても映画の話で、大映がつくった『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年3月11日公開)のなかで起こった出来事。


〈092〉ではそのあらすじ(福岡のシーンだけですが…)を見たところで終わっていましたので、今回はそのシーンを「別冊シーサイドももち」的にもう少し細かく見直してみたいと思います。



あらすじをもう一度という方はこちらをご覧ください。





ガメラは昭和から続く大映(現 KADOKAWA)の人気特撮映画シリーズです。

平成になって久しぶりに復活し、立て続けにつくられた3つの作品は、ガメラに新しいイメージを吹き込みました。


この平成3部作は今でもSNSでファンが語り合うほどの人気ぶりなのですが、福岡ドームが出てくる『ガメラ 大怪獣空中決戦』はその第1作目。

G1」と略されることもあるこの映画の高評価が、3部作(G1・G2・G3)へと繋がっていくことになりました。(このブログでも『ガメラ 大怪獣空中決戦』を「G1」と呼ばせてもらいます)



作品のメイキングや裏側は、『平成ガメラ パーフェクション』(株式会社KADOKAWA)や、3部作の監督である金子修介さんが書かれた『ガメラ監督日記 完全版』(株式会社小学館クリエイティブ)が詳しく、このブログもたくさん参照させてもらいました。

福岡のシーン以外もエピソードが楽しかったり、技術や工夫に感心したり、物作りについて考えさせられたりする話が満載ですので、ご興味のある方はぜひご覧ください。




『ガメラ監督日記 完全版』によれば、監督をつとめた金子修介さんは、1991年の暮れに映画『ゴジラVSキングギドラ』(東宝)に足を運ばれた際に、『ゴジラVSモスラ』(東宝)の予告編をご覧になったそうです。

1年後に上映予定のこの作品にはまだ監督名が記されていなかったため、金子さんは立候補されたのですが、実現しなかったとのことで…。


でもこれがきっかけで、大映がガメラを復活させるときに金子さんに監督の依頼がきたのだとか。

金子さんはガメラを引き受けるか迷われたそうですが(ガメラ作品の復活自体が立ち消えになるかもという懸念もあったり…)、奥さんとの会話のなかで怪獣映画を撮りたいという自分の思いがはっきりして、結果ガメラ3部作を生み出すことになったとのこと。



『ゴジラVSキングギドラ』に足を運ばれたことが「G1」のきっかけになったのだとしたら、『ゴジラVSキングギドラ』にも「シーサイドももち」が登場していますので、「別冊シーサイドももち」としては運命めいたものを感じるエピソードです。



『ゴジラVSキングギドラ』はこちらの回で紹介しましたのでご覧ください。





「G1」の脚本は事前に大映が準備した検討稿が2本あったそうですが、1993年7月末に伊藤和典さんが検討稿の一部を引き継ぎつつ新たに脚本を書くことになりました。

金子さんはこの伊藤さんの脚本が「G1」を成功に導いたと仰っています。


すでに伊藤さんのプロット段階で、謎の岩礁(これがガメラ)と、五島列島の大きな鳥(ギャオス)、それぞれの物語が別々に進んでいき(映像としてはカットバックで交合に見せながら)、やがてそれらが1つに繋がるなど完成版の「G1」と同じ構想があったそうです。



この2つの物語が1つに繋がるのは、ギャオスを捕獲しようとするシーンです。


完成した「G1」では、まさに福岡ドームがその舞台となって大事な役割を担っているのですが、実はプロット段階では、関門トンネルでギャオスを捕まえることになっていたのだそうです。

当初、福岡は「G1」の舞台ではなかったかもしれないのですね…。


(福岡市史編さん室撮影)
現在のドーム。ネーミングライツで「みずほPayPayドーム福岡」になりましたので、
看板も新しくなっています。
ちょうどこの角度でガメラはドームに現れます。



これが福岡ドームに変わったのは、大映側からのオファーでした。

ダイエーとのタイアップを企画するために、ダイエーホークスの新しいフランチャイズ球場を登場させたい、さらには怪獣映画の客入りが良い福岡でガメラの復活を勢いづけたいという意図があったそうなのです(大映とダイエーは名前は同じですが特に関係はない会社です)。


これによって、ギャオスの捕獲シーンが関門トンネルから福岡ドームに変わることになりました。



こうした変更を経ながら、1993年11月に伊藤さんの脚本の第1稿があがります。


大映が用意した2本の検討稿は、これまでのガメラのイメージを踏襲して子どもとガメラとの関係を強く押し出した物語になっていたのですが、金子さんいわく、この伊藤さんの脚本はハードSF。

これまでにないガメラのイメージです。


これを読んだ金子さんは身体中が熱くなり、やらなくてはいけない映画だと決意させられたというほどだったとか(この第1稿は『平成ガメラ パーフェクション』で全文を読むことができます。検討稿の1本もあわせて掲載されています。ちなみにもう1つの検討稿は福岡が最終決戦の場だったそうです)。



つづいて第2稿、第3稿と手直しされていきました(なお、監督や演者によって撮影現場で改められたセリフもあったとのこと)。


ただこの脚本では製作費が15億円かかるといわれたそうで…。

製作予算である5億円(のちに増資されて6億円)まで切り詰めなければならなくなりました。


とはいえ、6億でも大映にとっては社運をかけた大事業。

失敗が許されない状況だったのだとか。


平成ガメラ パーフェクション』に載っている樋口真嗣さん(特技監督)がまとめられた「ガメラ特撮に関する諸問題」(1994年1月5日)によれば、予算を減らすために福岡のシーンを縮小することも検討されていたそうです。

ガメラの出現場所を変えるという案もあったようで、その場合、ガメラは北九州市の工業地帯に出現して、福岡ドームでの捕獲に失敗したギャオスとそこで戦うことが想定されていました。


こうした改稿や予算削減をくぐり抜けて、無事にガメラとギャオスが揃って福岡を襲ってくれる(?)ことになりました




福岡ドームでのロケハンがおこなわれたのが、1994年1月。


ずいぶん寒かったそうで、福岡に着くなり、まずはラーメンとなったのだとか。

(冬に福岡に来られた方が意外に寒いと驚かれるのはあるあるです…)

その寒いなかで、福岡ドームをぐるぐるまわってアングルを決めていったそうです(特に「シーサイドももち」は風が強くて余計に寒く感じますから、ご苦労をお察しします…)。


ロケハンは最少人数であれば、本編班の監督である金子さんと、特撮班の監督である樋口さん、それにカメラマンや助監督などをあわせた6人、多いときになれば照明・美術・合成などのスタッフも加わって20人に及んだとのこと。


絵コンテを描きためたのち、撮影がクランクインしたのが、本編班は1994年6月21日(場所は伊豆)、特撮班は24日からでした。

撮了は本編班が8月15日、特撮班は10月(特殊美術担当の三池敏夫さんの記録では、特殊美術のオールアップは10月10日とのこと)。

特撮班はこれまでにないセットの組み方などのために時間がかかり、ご苦労があったそうです。


最終的に映画が完成したのは1994年12月15日でした。




さて、福岡での撮影は1994年8月6~11日におこなわれています。


「G1」での福岡のファーストシーンは福岡市動物園です。

メインキャストの1人、長峰(中山忍さん)の登場シーンでもあります。


長峰は福岡市動物園で働いていて、五島列島の姫神島で見つかった大きな鳥の雛(これがギャオス)の調査にあたっていた九大教授の教え子。

この恩師が島で行方不明になったことで、ギャオスの捕獲作戦に巻き込まれていきます。


このシーンで長峰は、白衣を着て園内の鳥舎の前で鳥の観察記録を書いています

ただ、これが何の鳥かの説明は特にないまま映画は進んでいきます。


ストーリーにこの鳥は関係ないのですが、場所が福岡市動物園ですから気になって調べてみました


姿からすると、この鳥はアンデスコンドルのようです。


そう思って「G1」を見ていると、この後、長峰が自分にかかってきた電話に出るために事務室のデスクに戻った際(おそらくは恩師からの最後の電話なのですが、電話は無言で切れてしまいます)、長峰の机には「アンデスコンドル」の飼育録が置いてありました

今回はじめて気づいたのですが、こんな細かな小道具にまで気を配って撮影されているのかと感心しきりでした。

(ちなみに、長峰に電話を取りつぐ同僚は金子さんにガメラの監督を引き受けるきっかけをつくった金子さんの実の奥さま、新藤奈々子さんが演じられています)



ロケ地となった福岡市動物園が開園したのは1933年です。

ただ、開園時は今とは場所が違っていて、福岡市の東公園にありました。

戦争による閉園を経て、現在の場所(「G1」が撮影された場所)に移ったのは1953年のことでした。


「G1」に出演したアンデスコンドルは、トサカがあって首回りも赤いのでオスのはずです。

そうすると、おそらくはこれは「はやと」だろうと思います。


アンデスコンドルは大人になるのに6年ほどかかるそうなのですが、「はやと」は1988年7月14日生まれですので、撮影時はちょうど満6歳、大人になったばかりで若々しいころです。

※福岡市動物園のYouTubeにも動画があがっています。



ちなみに福岡市動物園には、「はやと」と一緒に「きりこ」というアンデスコンドルのメスも長く暮らしていたのですが、残念なことに2021年に8月30日に亡くなってしまいました。

「きりこ」は1972年6月2日に博商会(福岡市博多区の中洲・川端の連合組織)から寄贈された1羽ですので、昭和・平成・令和と3時代を生きたことになります(コンドルの寿命は50~70年らしいです)。


こちらが「きりこ」。


長峰を演じた中山忍さんと共演した「はやと」は、今も元気に福岡市動物園で暮らしていて、その姿を見ることができます




ところで、このころの福岡市動物園は、1989年開催のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の会場で飼われていたアジア太平洋諸国の鳥147羽の寄贈を受けていて、放鳥舎を新築したばかりでした(この放鳥舎は今もあります)。

珍しいパプアニューギニアの「アカカザリフウチョウ(極楽鳥)」や、よかトピアで関係を深めたシンガポールの「ジュロンバードパーク」から譲り受けた大型の飛べない「ヒクイドリ」もいて、数ある鳥たちのなかでなぜアンデスコンドルが「G1」の撮影に抜擢されたのかは不明なのです。

アンデスコンドルが羽根を広げれば3メートルにも達し、飛べる鳥のなかでは世界最大級で肉食でもあることが、ギャオスと重ねられたのかもしれません(ちなみに「はやと」はおとなしい性格だそうです)。



長峰が福岡市動物園でどういう仕事をしていたかは、監督の金子さんいわく、長峰を演じた中山忍さんの年齢が脚本で想定していたよりも若かったため、あえてぼかしたそうです。


福岡市動物園50周年記念誌』によると、撮影時の福岡市動物園のスタッフは次の通り。


【1994年の動物園のスタッフ】

動植物園部長 1名

動物園長 1名

庶務係 6名(うち1名は嘱託):諸事務・広報企画・連絡調整を担当

管理係 9名:園内の維持管理を担当

飼育係 20名:動物の観察・飼育日記への記録、給餌、学校教育との連携を担当

動物衛生係 2名:獣医師で動物の健康管理・診療を担当


長峰は白衣を着ていることからすると一見、動物衛生係(獣医師)のようでもあるのですが、飼育記録をつけていることから飼育係とも思えます。

このあたりがぼかしてあるということなのでしょうね。




さて、その長峰は恩師の行方不明を受けて、長崎県警の大迫(螢雪次朗さん)と一緒に姫神島に向い、そこで3羽のギャオスを見つけます。


実はこれ、先ほどの製作費の節減のために、脚本では5羽だったのを3羽に減らしたのだそうです。

脚本では5羽が福岡ドームに向かい、途中1羽の死亡を経て、4羽がドームに降り立つはずでした。



この3羽のギャオスを捕獲する方法を考えるように、環境庁審議官の斎藤(本田博太郎さん)から告げられた長峰と大迫は頭を悩ますことになります。

夜中、2人でコンビニのおにぎりやパンで食事を取りながら考え込むなか、大迫がコンビニで買ってきたばかりのスポーツ新聞の1面を見て、開閉式の屋根を持つ福岡ドームにギャオスを誘い込んで閉じ込めることを思いつきます


大迫が見たスポーツ紙は、福岡ではお馴染みの『九州スポーツ』(『東スポ』グループ)でした。

見出しにはこのような文字が躍り、ダイエーホークスの秋山幸二選手のバッティング写真が大きく載っています。


福岡ドーム天井直撃!秋山

首位奪還 史上初 ウッソー!はね返ってスタンド入り

奇跡の一打で単独首位


秋山選手が西武ライオンズからホークスへ移籍したのは、まさに「G1」を撮影した1994年。

この年は129試合に出場して、120安打・26本塁打、打率は2割5分4厘で盗塁が26、外野手としてゴールデングラブ賞を受賞されました。


ホークスがまだ現在のような常勝球団ではなかったころ、すでに球界のスターだった秋山選手には、プレーでも意識の面でもこれからホークスを優勝に向けて牽引してくれるはずという期待が集まっていました。

「G1」の『九スポ』の見出しのようなことは実際にはありませんでしたが、この役が似合う選手となれば秋山さんしかいないというのは納得です。



一方で、この『九スポ』紙面の端に目を移すと、「マドンナ再」という文字があります。

「再」の次の文字は紙が折れていてはっきりしないのですが、「婚」のように見えます。


歌手のマドンナは1989年に俳優のショーン・ペンと離婚していますので、それをふまえて、スポーツ紙らしくするために芸能ネタとして入れたものでしょうか(実際にはマドンナが映画監督のガイ・リッチーと再婚するのは2000年ですので、だいぶん先の話です)。


ただ、こういうフィクションにわざわざマドンナを選んだのは、「G1」の撮影時期と舞台が福岡であることとが無関係ではないかもしれません。


マドンナは人気絶頂の1993年(「G1」撮影前年)に、東京ドームと福岡ドームでコンサートをおこなっているからです。

福岡公演は12月7~9日の3日間、なかでも12月8日の公演はテレビ放映用に撮影され、音源はCDで発売されています。


マドンナは福岡ドームが東京ドームとならぶ日本最大級のコンサート会場であることを広めたミュージシャンの1人。

これも実は大迫がギャオスの「鳥かご」として福岡ドームを思いつく場面にふさわしい人選ではないかと思っています。




さてこの『九スポ』、日付は不鮮明ながら6月10日のように見えます。


これより後のシーンでギャオスの捕獲が6月10日の夜であることが分かるのですが、ということは、大迫と長峰が福岡ドームでの捕獲を思いついたその日に作戦が実行されたことになります。

(この日、ホークスのゲームが予定されていなかったのか気になるところですが…。閣議での決定なので仕方ないのか…)



「G1」ではここで夕暮れの福岡ドームが映ります。

スクリーンに向かって下手(左側、方角だと西側)に屋根を開けたドームの映像です。


ところが次のカットでは、ドームの南側(現在では「MARK IS 福岡ももち」が立つ側。当時はバス乗り場や駐車場でした)から撮った映像になっていて、屋根がさっきとは反対のスクリーンの上手(右側、方角だと東側)に向かって開いています。



どちらが本物かというと、画面に向かって下手(左側、方角だと西側)に開いている方です。


(福岡市史編さん室撮影)
シーホーク側(西側)に向かって屋根が開いているドーム。


「G1」では、これをあえて画像処理で反転させ、逆側に屋根を開口させたのだそうです。

『平成ガメラ パーフェクション』で当時の撮影風景の写真を見ると、あとから反転させることをふまえて、バス乗り場で交通規制をする警察の「緊急により 車両進入 駐車禁止 福岡県警察署」の立て看板も、あらかじめ左右を反転させた文字で書かれています。


となると、最初のドームが反転されていないのはなぜかとなりますが、整合的に考えれば南側(バス乗り場)ではなく、北側(海側)から撮ったというテイなのかもしれません(実際に北側から撮ると、都市高速や松原が映り込んで違う画になってしまいます)。



なぜわざわざ反転させる必要があったかについては、「福岡港」から上陸したガメラとの位置関係を明瞭にするためだったそうです(『平成ガメラ パーフェクション』)。

主役(ガメラ)は上手から登場するものだとも書かれていて、スクリーンの上手(右側、方角だと東側)からガメラを登場させるための演出でした。



ただ、『平成ゴジラ大全 1984~1995』にはこう解説されています。


実は大映の「G1」と同時期に、東宝の『ゴジラVSスペースゴジラ』も撮影が進んでいました。

しかも舞台は同じ福岡の「シーサイドももち」。

ドームの西側にある福岡タワーが主要な場所になっていました。



大映のガメラ(「G1」)は東宝洋画系の映画館で1995年3月(春休み)の上映、一方の東宝の生え抜きスターのゴジラは東宝邦画系で1994年12月(お正月)の上映予定でした。


そのためにあらかじめ「G1」は福岡タワーを撮さないこと、『ゴジラVSスペースゴジラ』は福岡ドームを映さないことが、両製作サイドで約束されていたのだそうです。



もし実際の福岡ドームの通りに、スクリーン下手(左側・西側)に開口した福岡ドームで「G1」の物語を進行させれば、おのずとその背後に福岡タワーが映り込んでしまうでしょう(それを画像処理で消したら消したで、タワーがないじゃないかと悪目立ちします…)。

ところがドームを反転させれば、その心配はなくなります。


これがガメラをスクリーンの上手(右側)から登場させたことによる副産物的なものなのか、あるいは最初から福岡タワーを避けるのが目的だったのかは分かりませんが、完成した「G1」では一切福岡タワー方面は映っておらず、ちゃんと東宝との約束が果たされることになりました。


「シーサイドももち」はドームがある方が中央区地行浜、福岡タワーがある方が早良区百道浜になっていて、区をまたぎながらも一体として開発することがコンセプトになっている場所なのですが、結果として、ガメラは地行浜を、ゴジラは百道浜を分担して壊すことになりました

(「別冊シーサイドももち」的にはガメラと福岡タワーの共演も見たかったのですけど…残念)


ちなみに「G1」の撮影時にはすでに福岡ドームの隣でホテル「シーホーク」の建設が始まっていましたが、建設途中であることからこちらも意図的に画面からははずされたそうです。




さて、映画ではいよいよ福岡ドームでのギャオス捕獲作戦が実行され、自衛隊のヘリが3羽のギャオスを五島列島から福岡ドームまで誘導してきます。


球場内に置かれた作戦本部と、ギャオスを誘導するヘリとが無線で交信するところは、ホークスファンの推しポイント。

ヘリの「ハーキュリー1(ワン)」からの連絡に、本部は「こちらハリーホーク」と応えています。

「ハリーホーク」はホークスのマスコットキャラクター、「ハーキュリー」はハリーと一緒にホークスに入団したライバルの名前で、「G1」製作スタッフの遊び心と福岡へのサービスが感じられるシーンです。



ダイエーホークスのキャラクターは「ホーマーホーク」だったのですが、「G1」撮影の前年の1993年に球場を市内の平和台球場から福岡ドームに移した際、「ホーマーホーク」の弟で新登場の「ハリーホーク」と交替したばかりでした。


先ほどの『九スポ』紙面の秋山選手といい、球団と球場の新しい姿がそれとなく映画に盛り込まれています。

(さすがにダイエーホークスとそのキャラクターが鳥であることと、ギャオスはかかってないと思いますが…)




こうしてドームに舞い降りることになる3羽のギャオス。

一方、米森(伊原剛志さん)がドームに現れ、黒潮にのって太平洋を移動していた環礁が推定60メートル以上の巨大生物(ガメラ)であり、一直線に福岡ドームへ向かっていることをはじめて長峰らに伝えます。



実はこの黒潮にのって太平洋を移動していたガメラが博多湾へやってくるという設定には、ほかならぬ監督の金子さん自身がおかしな話だと仰っています。


太平洋から一直線に福岡ドームには来れず、わざわざ途中で関門海峡を通ってくる必要があるというのです。

しかも、ガメラがドームを目指しているとなぜ米森に分かったのかと…。


ただし、ここまでストーリーは長峰の五島でのギャオスの物語と、米森の太平洋でのガメラの物語とが別々に進行してきていますので、観客にとっては“米森が長峰のところにキター!” “話が1個になったー”という方に目が行ってしまい、このおかしな設定を詮索する心理にはならず、矛盾を指摘した人はこれまでいないと金子さんは『ガメラ監督日記 完全版』なかで書かれています。



なるほど、確かに仰る通りですよね。


ところが、こと当時の福岡の観客に限れば、おそらくこれにあまり疑問を抱かなかったのではないかとも思います。



というのも、当時の福岡の人は太平洋から誰かが福岡に来るのは慣れているからです。


1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)のマスコットキャラクター、「太平くん」と「洋子ちゃん」は手塚治虫さんの作品ですが、そのコンセプトは、2人は子どもながら「であい」を求めてカヌーで太平洋から黒潮にのって福岡までやって来た、というものでした。


これが無謀でないことは、よかトピアの開催を記念して、太平洋のミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島から福岡までの5000キロを、羅針盤や海図を使わずに太陽・星・雲・波を頼りに人力で航海したヤップカヌーが証明しました(安全のために伴走の船はつきました)。

このときのクルーは、博多どんたくのパレードに参加したり、よかトピアの会期中にふたたび来福してイベントでショッピングセンターをまわったりと、福岡ではすっかり有名人になりました。(そういえば、このショッピングセンターもダイエーでした)


また、よかトピアの会期中には、ニュージーランドのオークランド市から博多湾を目指して太平洋を縦断(1万200キロ)する国際ヨットレースも開かれ、37艇が競ったりもしています。


よかトピアの会場では太平洋の国々が引っ越してきたかのように、現地のものや建物がならび、それらをつくったり、イベントに出演したりするために、たくさんのアジア太平洋の人びとが福岡を訪れました。



よかトピアのときに散々アジア太平洋と福岡とのつながりを聞かされ、実際それを目撃してきた福岡の人びとにとっては、たとえそれがガメラであっても、むしろ当然のマインドがすでにあったのです。

きっと、もし脚本の構想段階にあった関門トンネルや北九州の工業地帯までしかガメラが来なかったとしたら、福岡の人はそこまで来てなぜこっちに寄らないと不思議に思ったくらいでしょう。





さて米森の言葉を裏付けるように、福岡の沖合約12キロの地点で、正体不明の物体が速度約50ノット(時速90キロ以上)でドームを目指して直進していることが確認されました。

これがガメラなわけですが、海からガメラが浮上したのは石油タンクが並ぶ場所でした。

ここでドームから逃げ出したギャオスを一撃でたたき落とし、ドームへ向かいます。


さて、ガメラが現れたこの場所はどこかとなると、福岡市内で石油タンクが並ぶのは西公園近くの荒津しかありません



戦後、博多湾岸では埋め立て地に点在する石油タンクと、一般の商船・漁船が出入りする港湾施設とを分けることが防災上の課題となっていました。

ところが、財政上の理由でなかなか進んでいませんでした。


そうしたなかで1954年に、日本石油が福岡市に対して荒津の埋め立て後の土地約3万㎡を借りることを申請すると、福岡市はあらかじめこの土地を同社に売却してそれで工費をまかない、1958年までに約20万㎡の埋め立てを進めました。

その後、1970年の完了まで順次埋め立てが続き、現在この場所は各社の貯油タンクが集まる石油中継基地になって、戦後の懸念が解消されました。





福岡タワーの展望室から石油中継基地方向を見るとこういう景色です。

奥に荒津の石油中継基地、その手前にドームが見えます(ドームの手前にある大きな建物は「ヒルトン福岡シーホークホテル」)。


(福岡市史編さん室撮影)


もう少しアップにするとこんな感じ。

(福岡市史編さん室撮影)


つまり、石油タンクを目の前にガメラが浮上する場所は、西公園近くの荒津しかないことになります。


このシーンでは防波堤のすぐ外の海中にガメラが現れるのですが、石油中継基地のそばには博多港の西防波堤があって、この点でも一致します。



ガメラはそこで上陸し、石油タンクが炎をあげるなかをドームへ向かって歩いていきます。


ここからドームまでは2キロ弱。

ドームの姿はもう見えています。

全長60メートル以上のガメラの歩幅では、さほど時間をかけずに迷わずに行けるはずです。



ドームの北側は目の前が海ですから、そこで浮上すれば良かったのではとも思いますが、そうすると福岡タワーや建設中のシーホークが映り込む可能性も高いですし、石油タンクの炎のなかをまるで花道を歩くように進む方がやはり迫力と緊張感がありますので、これは演出上仕方ないことでしょう。

(伊藤さんの第1稿ではガメラはそこから高速道路を破壊して、樋井川沿いにドームに接近する設定でしたが、これは完成版では採用されませんでした)


それより、実際の博多湾は水深が浅いのです…。

湾の外側は最大23メートル程度はあるそうですが、湾内の平均は10メートル、陸に近い部分は5メートル以下です。

そのため大きな船が通る航路が2本掘られているほどです(中央航路:箱崎・東浜・中央・博多・須崎/東航路:アイランドシティ方向)。


全長60メートル超えの巨体で、これまで太平洋の水深3000メートルを泳いできたガメラはきっとその浅さに困惑したのではないかと思います…。



ところが、映画ではガメラはまず長浜の屋台街に向かいます。

これはやや遠回りになるのですが、石油タンクから続く花道の延長と言えるでしょうか。



次の場面では、狭い橋いっぱいに人びとが逃げています。

その橋の奥、川の遠い向こう側を巨大なガメラが横切ります。

人びとはスクリーンの下手(左側)から上手(右側)へ逃げ、ガメラはそれとは反対の方向に歩いています。


川沿いのビルの様子から、この川は那珂川、人びとが逃げる橋はそこにかかる中洲懸橋(なかすかけはし)だと分かります。

撮影時の橋は今もあって、これは1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の際にかけ替えられたものです。



こちらが中洲懸橋。

(福岡市史編さん室撮影)


映画ではこういうアングルもありました。

(福岡市史編さん室撮影)



橋のたもとにある案内板。

(福岡市史編さん室撮影)


ガメラが歩くシーンはこんなイメージです。

(個人蔵のフィギュアを合成)



そうすると、人びとは西(天神方向)から東(現在のキャナルシティ側)へ逃げ、ガメラはその反対に福岡の東区方面から西へと向かっていることになります。



これを現実の位置関係のなかで見れば、ガメラはいったんドームを目の前にしながら、荒津から逆方向の東に進み(途中で長浜の屋台街を通り)、反対だと気づいて戻っている(春吉の中洲懸橋からこれが見える)ことに…。


(地理院地図Vectorを基に作成)



もちろん、太平洋からまっすぐドームに向かってきたガメラが方向を見失う訳はないでしょうから、映画の演出上は、石油中継基地が実際よりもっと東側に想定されていることになりそうです。

浮上して2キロ先、もうドームが見えているのでは、復活したガメラの登場として花道が短すぎるということなのでしょうね。



この間、映画では、「福岡港」に怪獣が現れたというニュース速報を日本テレビのスタジオで木村優子アナウンサー(ご本人)が読み上げられ、テレビのテロップには「博多湾」沿岸の西区・中央区・早良区・博多区に避難勧告が出されたことが流れています。


東区に避難勧告が出ていないことは、中洲懸橋を逃げる人びとが中央区側から東区方面に向かっていることとも合いますし、ガメラが東区方向から博多区を通過して、ドームがあるシーサイドももち(中央区・早良区)方面に歩いていることとも合致しています。



こうして、石油中継基地を実際より東に想定することでガメラの花道を延ばし、博多湾岸を東から西へ、中洲や長浜ラーメンなどで存分に福岡を紹介しながらドームへと向かったという演出になるのでしょう。




ところで、川の向こうにガメラを見ながら、手前の中洲懸橋を人びとが逃げるシーンをどこから撮ったかといえば、福岡の方々ならすぐに分かる通り、隣にかかっている春吉橋(はるよしばし)だと思われます。


(福岡市史編さん室撮影)
左が中洲懸橋、右が春吉橋


撮影時の春吉橋は2013年からかけ替え事業がはじまり、2022年に新しい春吉橋が開通しましたので、今はもう残っていません。

このかけ替えは、新しくなった橋の橋名プレートの文字をタモリさんがお書きになったことでも話題となりましたので、ご存知の方が多いのではないでしょうか。

現在は、かけ替え時の仮橋もそのまま残されて広い歩道となり、にぎわい空間としてイベントに利用されています。


(福岡市史編さん室撮影)
タモリさんが揮毫された春吉橋のプレート


(福岡市史編さん室撮影)
写真手前がにぎわい空間に利用されているかけ替え時の仮橋部分


とはいえ、新しい橋も場所は同じですので、ここに立つと変わっていない中洲懸橋の向こうを横切っていくガメラの姿を想像できる「G1」の聖地になっています。




「別冊シーサイドももち」的に気にかかるのは、先ほどの木村優子さんのアナウンス。

「福岡港」と仰っているのですが、正しくは「博多港」なのです…。


博多港は1899年に関税法によって開港の指定を受けて国際貿易港として歩みはじめるのですが(明治時代のことです)、戦後には1951年に重要港湾、1990年に特定重要港湾となった、福岡市内の博多湾岸に広がる大きな港。

「シーサイドももち」になった埋め立て地も、この博多港の長年の港湾計画のなかで誕生しました。


この第1報のアナウンスの部分、実は伊藤さんの第1稿には「福岡湾」と書いてありました(これも正しくは「博多湾」)。

これを完成版では「福岡湾」を「福岡港」と改めたうえで、続く避難を伝えるテロップでは「博多湾」と正しく表記しています

さらには事件後に映る電車内の週刊誌の吊り広告には、こちらは正しく「博多港」と書かれているのです。



リアルな演出で有名な平成ガメラシリーズのことですから、何か理由があるのかもしれません。

もし「博多港」が正しいことを知ったうえで、緊急事態を伝えるニュース原稿の混乱ぶりを「福岡港」と間違うことで表したとしたら、恐るべき繊細な演出です。

真相はどうなのでしょう。





こうしてようやく福岡ドームにたどり着いたガメラは、ドーム内のギャオスを狙って、東向きに開いたまま閉じ切れていない屋根を壊すことになります。

ギャオスは東の空に逃げ、ガメラが円盤のように空中に浮かんで回転しながらそれを追いかけていくことで、福岡のシーンは終わりました。

(個人蔵のフィギュアを合成)




このあと物語は瀬戸内から東日本に向かって展開していくのですが、ドームを反転させて屋根の開口部分を東に向けたことで、ガメラが屋根を壊すところから、ギャオスが逃げる方向、ガメラがそれを追いかけるシーンと、確かに導線が整理されて見やすくなっています。



驚くのはドームのシーンでは実際の球場内の映像とあわせて、ミニチュアの模型や写真のかきわりを使った特撮も混ぜられていることです。


たとえば、手前に緑色の座席とフェンスの小さな模型をカメラに写る部分だけ作って置き、その向こうにはロケのときに撮影した写真を引き伸ばしてパネルに貼り付けたかきわりを立てて、球場の広い空間や遠近感を出しています

言われないと模型だとはまったく気づかず、実際の座席から撮ったように見える精巧さです。


ガメラが「福岡港」に浮上するシーンは、このためにつくられたセットプールで撮影されました。

ガメラが水面下に沈むようにそこだけプールを深くし、浮上する際には液体窒素で白煙をつくり迫力を加えてあります。

海辺のガメラがたたき落とすヘリや、荒津の石油タンクもミニチュアで撮られています。


このギャオスをたたき落とすシーン、16回目でようやくOKになったそうです。

ガメラの中に入っておられたのは、当時佐藤浩市さんの付き人もされていた真鍋尚晃さんなのですが、途中で酸欠のために意識が飛び、撮影が中止になったほどの過酷なシーンだったとか…。


ガメラがわずかに開いた屋根からドーム内のギャオスを覗きこむシーンでは、開口した屋根の部分だけミニチュアをつくり、そこにガメラの首だけを覗かせ(撮影スタッフが棒の先に首をつけ、かかげています)、屋根の内側から撮られています。

さらにはそこにあらかじめ切り込みを入れておいて、ガメラが屋根を壊しやすいようにもなっていました。


ミニチュア製作を担当した佐藤祐一さんは、途中から『ゴジラVSスペースゴジラ』の仕事も並行していたらしく、両作品とも舞台が同じ福岡なのだから、一緒につくって半分ずつ使えばいいのにと思ったほど模型製作は大変だったそうです…。


こうした福岡の特撮シーンは、福岡ロケのあと1994年9月に東京のスタジオで撮影されました。


「G1」は合成も使っているのですが、当時はまだデジタル合成が高価だったため、限られたシーンにしか使われず、ほかはすべてフィルム合成が使われていることも驚きです。(むしろ当時はそちらの方に信頼があり、職人さんも優れた技術をお持ちだったそうです。ほんと尊敬しかない技です…)

ちなみに「G1」での貴重なデジタル合成の1つは、福岡ドームでギャオスに逃げられた際、ガメラが空中に浮き、円盤のように回転しながらそれを追いかけるシーン

実はとてもお金がかかっている場面なのだそうです(NHKエンタープラズが担当)。




映画のなかでは、翌日の新聞にこのような見出しが踊りました。

福岡市民、恐怖の一夜

ドームに怪獣出現

被害甚大、死傷者多数

行方不明の怪獣追跡

怪獣はプルトニウム輸送船と接触していた!





また東京の電車でもこのような週刊誌の吊り広告が怪獣(ガメラ)の出現を報じています。

海から怪獣浮上!

福岡襲撃

福岡ドーム崩壊!!

博多港コンビナート炎上!!

謎の空飛ぶ巨大怪獣出現!!

博多港の海底から怪獣浮上…



福岡の被害状況を知りたいところですが、これらの見出しに具体的な表現はありません。

これは具体的な数字などを出すと、観客がガメラに感情移入しにくくなるため、意図的にそうしているのだそうです。


余談ですが、この週刊誌、「地価底値、低金利で新築一戸建ては今が買いだ!」という見出しもガメラと一緒に並んでいて、バブル崩壊後の時代を感じます。




1995年3月11日に封切られた「G1」は、結果、配給収入は5億2000万円、動員は80万人となりました(同時期に撮られたゴジラは配給収入16億5000万円ですが、もとの予算もケタが違うそうです)。

DVDなどの映像化も含め何とか黒字となった「G1」でしたが、それでも次に期待を抱かせるのに十分な成果と評価され、すぐに「G2」(『ガメラ2 レギオン襲来』1996年7月13日公開)の製作が動き出すことになりました。


「G1」の高評価がなければ、今も語り継がれる平成ガメラ3部作は誕生しなかった訳ですから、そのストーリー展開やビジュアルの面で福岡も少しは役に立ったということではないでしょうか。


なかでも福岡ドームの存在感が際立っています。

開閉式屋根で大きな鳥を捕まえるという奇想天外なストーリーは、福岡ドームしか引き受けられないものです。

ギャオスがグラウンドに舞い降りたあと、ゆっくりと閉まっていく重厚かつダイナミックな屋根の動きは、映画を観ている人に緊張を与え、物語をより説得力あるものにしてくれます。


「G1」でガメラとギャオスとの最終決戦の場は東京タワーでした。

しかしこれも脚本家の伊藤さんの案では違う場所で、東京の「大川端リバーシティ21」(ウォーターフロントの高層マンション街。1989年に入居開始)だったのだそうです。


特撮監督の樋口さんはこれに対して、「役者としてまだ若い」と言われたそうで、特別感やわかりやすさのある東京タワーに変更になったのだとか。


樋口さんの表現を借りれば、福岡ドームは1993年にデビューしたばかりの新人役者

ただ、その存在はデビュー前からすでに全国から注目をあびていました。


福岡ドームの役どころは前半で観客をつかみ、後半に向けて物語を方向付けることでした。

「よッ! 待ってました!」と迎えられる重鎮役者の東京タワーに対して、新人役者らしい華やかさと、若々しくこれまで見たことがない演技でガメラの復活作を十分盛り立てていると思います。


機会がありましたら、ぜひ『ガメラ 大怪獣空中決戦』でデビューしたてのころの福岡ドームの姿をご覧ください。


そして時は経って、新人だった福岡ドームもすでに30年を超え、誰もが知る福岡の顔となりました。

その歴史には数々の逸話がありますので、これはまた今度に。






【参考資料】

DVD『ガメラ 大怪獣空中決戦』(株式会社KADOKAWA、2016年)

・『平成ガメラ パーフェクション』(電撃ホビーマガジン編集部 編集、アスキー・メディアワークス プロデュース、株式会社KADOKAWA 発行、2014年)

・金子修介『ガメラ監督日記 完全版』(株式会社小学館クリエイティブ 発行、2024年)

・白石雅彦『平成ゴジラ大全 1984~1995』(株式会社双葉社 発行、2003年)

・『博多港史』(福岡市港湾局 編集発行、2000年)

・『The 50th anniversary Fukuoka zoo 福岡市動物園50周年記念誌』(福岡市動物園、2003年)

・ウェブサイト
 ・福岡市動物園 https://zoo.city.fukuoka.lg.jp/zoo/
 ・博多港プロフィール https://www.city.fukuoka.lg.jp/kowan/hakata-port/01/profile.html
 ・博多港開発株式会社 http://www.port-hakata.co.jp/



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Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル 



※ 一部文章を修正しました(2024.11.2)