埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~
跡地は現在、早良区役所や早良市民センター、SAWARAPIA(旧 ももちパレス)などの公共機関が集まる場所となっていますが、ここにはかつて、高い赤レンガの塀に覆われた、巨大な監獄(刑務所)が建っていました。
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(地理院地図を基に作成) |
(『紀念写真帖』より) 竣工当時、表門付近からみた監獄の様子。 中央に写っているのが監獄の正門です。 |
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かつて表門があったと思われるのはこの辺。 だいたい福岡市地下鉄藤崎駅の2番出口があるあたりです。 写真は、ちょうど猿田彦神社の前から北向きに撮っています。 |
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(宿久晃氏撮影/個人蔵) |
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(宿久晃氏撮影/個人蔵)
解体中の福岡刑務所の様子を捉えた貴重な写真。
塀以外もレンガだったことがよく分かります。
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福岡監獄(刑務所)については百道の歴史の一つとして、こちらのブログでも過去4回(!)にわたって紹介してきました。
まずは、福岡監獄が西新町に移ってくる前のお話(第60回)。次は完成した福岡監獄の建物を「建築見学ツアー」としてご紹介したお話(前後編/第62・63回)、それから時代がぐっと下って、戦中の福岡刑務所に収監された韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の没後80年にあわせて行われた、追悼式や記念講演会の様子、そして来日された尹東柱のご遺族と一緒に福岡刑務所跡地を歩いたというお話でした(第102回)。
第5弾となる今回は、刑務所移転60年記念ということで、明治~大正初期にかけてのビックプロジェクトだった福岡監獄の建設について、建設当時の状況をもう少し細かく深掘りしてみたいと思います。
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明治に起こった近代監獄建設プロジェクト
福岡監獄は、明治41(1908)年に工事が始まり、大正5(1916)年に完成しました。この時期は、監獄や拘置所などが全国でつくられており、それらは当然国の事業として行われました。
なかでも明治33(1900)に監獄法が施行され、最初の監獄改築計画としてつくられた長崎監獄(明治40年竣工)、千葉監獄(明治40年竣工)、金沢監獄(明治40年竣工)、奈良監獄(明治41年竣工)、鹿児島監獄(明治41年竣工)は、「明治五大監獄」と呼ばれます。
これら「明治五大監獄」を設計したのは、当時司法省営繕課にいた司法技師の山下啓次郎と太田毅でした。山下も太田も帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)を卒業して司法省に入庁したエリート技師です。
2人は8歳ほど年の差がありますが(山下の方が年上)、どちらも日本銀行本店や東京駅の建築などで知られ「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の弟子でした。また、山下はジャズピアニストとして活躍されている山下洋輔さんの祖父に当たります。
一方の福岡監獄は、先ほどの明治五大監獄の後、第2期の監獄改築計画としてつくられた監獄です。ちなみに同じ第2期として建設が計画された監獄は、甲府監獄(山梨県/明治45年竣工)、秋田監獄(秋田県/明治45年竣工)、安濃津監獄(三重県/大正4年竣工)、豊多摩監獄(東京都/大正4年竣工)がありました。
福岡監獄の設計者は?
というのも、福岡監獄に関しては設計図面などの詳細な資料が見つかっておらず、具体的な設計者名の特定には至っていないのです。
福岡監獄の建設に当たっては、建築現場で実際に指揮を執っていたのは山下ではなく、その部下の金刺森太郎という人物だったことがわかっています。
金刺は技手から技師への昇進と同時に、福岡監獄建設現場への在勤を命じられています。福岡監獄は同年6月には建設が始まっていますので、金刺が技師として着任する前から補佐的に設計に関わった可能性もありますが、その場合でも主な設計者は上司であった山下や太田と考える方が自然でしょう。
苦労人・金刺森太郎のその後…
金刺はこの後も数年ごとに大阪→神戸→名古屋→京都→東京→大阪・名古屋(兼務)とくり返し異動を命じられ、各地の監獄や地方裁判所などの建築に従事しています。
とりわけ有名なのは、2024年に放送されたNHKの朝ドラ「虎に翼」のロケ地としても有名になった「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」。これも金刺と山下の設計による建築物です。この建物は現在でも名古屋市市政資料館として使われており、建物だけでなく図面資料なども保存され、一般に公開されています。
レポ・福岡監獄の建設現場から
さて話を福岡監獄に戻しましょう。
一方、金刺が福岡を去ってすぐ後、本格的な工事が始まっていた明治43(1910)年8月に、福岡監獄の建設現場を取材した記者がいました。
それは、福岡日日新聞社にいた斎田耕陽という記者です。
記事ではそんな多加羅こと斎田耕陽が建築中の福岡監獄に潜入し、その様子を3回にわたって細かくレポートしています。
さすが新聞記者、前々から看守長とはすでに「顔馴染」になっていたようで、その看守長に先導され、さっそく「工務室」で「重松主任技手」と「森技手」という2人の担当者を紹介されています。この「重松主任技手」とはおそらく金刺とともに福岡に赴任していた重松勘之助で、「森技手」とは同じく司法省営繕課にいた森兵作という技手だったようです。
斎田はさらにこの取材で当時の建設予定平面図も見せてもらっています。しかし、福岡監獄の建設は途中何度か計画が変更されているため、この時の取材で斎田が見せてもらった図面と最終的な出来上がりとは少し違っています。
細かい部分の違いはもちろんありますが、大きく違うのは次の2点です。
こちらが実際に完成した配置図。
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(『紀念写真帖』掲載の平面図を基に作成) |
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(『紀念写真帖』掲載の平面図に記事の内容を反映)
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このように、中央見張所より手前の部分には本来「拘置監」と「女監」という施設ができるはずでした。拘置監とは、刑事被告人や死刑の言い渡しを受けた者を拘禁する場所で、女監とはその字の通り女性受刑者のための監獄です。
ところが建設途中で青年監(一般の受刑者よりも若い受刑者を収容)と、幼年監(少年犯罪者を収容)を併設しなければならなくなり、計画は変更に…。
結果、拘置監は土手町にあった福岡区裁判所敷地内に「福岡監獄土手町出張所」(現在は中央区役所がある場所)を建て、女監に収容予定の女性受刑者たちは、久留米にあった分監(現在は福岡刑務所久留米拘置支所)に移されることになりました。こうした計画変更は、最終的に工期が延びることになった一因でもありました。
木工(大工) 106名
木挽き 49名
鍛冶 42名
石工 52名
畳製造 5名
レンガ製造 111名
レンガ積み 35名
左官 13名
その他人夫 330名
雑役 32名
合計 775名
※「雑役」は、炊事・掃除等も含む。
しかもこれらの作業を担ったのは、実際そこに収監されている受刑者たち…そう、この775名の作業者は、全員が受刑者というわけです。
もちろん彼らを指導・管理するのは看守たちです。当時福岡監獄に配属されていた職員の内訳は下記のとおりでした。
典獄 1名(毎週3日勤務)
第2課長 1名(毎日出勤)
看守長 2名
部長 6名
看守 60名
主任技手(看守長兼務) 1名
第三課分遣看守長 1名
技手 2名
工手 1名
看守 1名
雇書記 1名
第一課・第三課事務看守 3名
合計 80名
現在の刑務所の看守職員数は正式には公表されていませんので比較はできませんが、800人近くの受刑者に対して80人の看守というのは、さすがにちょっと心許ない気もしますよね(しかもほとんどが外で建築作業をしているという…)。
こうして監獄建設の様子を隅々まで見学した斎田は、最後に工事中の建物の2階に上がらせてもらい、次のような感想で記事を締めくくっています。
工事中の第二監の二階の棟に登臨した時は新に一種の感が浮んだ。見渡せば海の中道、志賀、残の島(注:能古島)、袖浦の碧水を隔てて皆一望の中に入る。更に南に向き反れば、門前近く猿田彦大神の社に対し、やや距れて稲荷山の涼し相な風景も呼応の間に見えて居る。東は緑滴るばかりの松の梢を天上から眼下して脚下に千眼寺の瓦を看(み)、西は室見の清流を隔てて愛宕の山を仰ぎ見る。知らず愛宕山の頂辺に立ち、福岡新監獄の壮観を下瞰しつつ「大丈夫当(ま)さに此に居るべし」と壮語して居る新将門的快男児ありや否や。
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今回は福岡監獄の建設当時の様子についてご紹介しました。
(『紀念写真帖』より) 竣工した大正5年の時の看守や職員たちの集合写真。 |
【参考資料】
・『司法省沿革略誌』明治41年1月−明治45年7月・大正1年7月−大正5年12月・大正6年1月−大正10年12月・大正6年1月−大正10年12月
・『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、柴藤活版所、1916年)
・筑紫野市史編さん委員会編『筑紫野市史 下巻 近世・近現代』(筑紫野市、1999年)
・瀬口哲夫「再見 東海地方の名建築家③ 建築人生の花道となった名古屋控訴院/設計監督工事者・金刺森太郎」(『ARCHITECT』2005年6月号、JIA公益社団法人日本建築家協会)/http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2005/06/seguchi.htm
・石田潤一郎「赤れんがの監獄が物語る明治の近代化」(重要文化財旧奈良監獄見学会講演会資料、2017年7月16日開催)
・明治43年8月21日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(二)」・明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(三)」