2024年11月1日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈096〉別冊シーサイドももち的にG1(『ガメラ 大怪獣空中決戦』)を見てみた ―屋根に穴があいた福岡ドーム(その2)―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。










〈096〉別冊シーサイドももち的にG1(『ガメラ 大怪獣空中決戦』)を見てみた ―屋根に穴があいた福岡ドーム(その2)―


このブログの〈092〉では、「シーサイドももち」にできたばかりの福岡ドーム(現在の「みずほPayPayドーム福岡」)の屋根に穴が空いた話を紹介しました。



といっても映画の話で、大映がつくった『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年3月11日公開)のなかで起こった出来事。


〈092〉ではそのあらすじ(福岡のシーンだけですが…)を見たところで終わっていましたので、今回はそのシーンを「別冊シーサイドももち」的にもう少し細かく見直してみたいと思います。



あらすじをもう一度という方はこちらをご覧ください。





ガメラは昭和から続く大映(現 KADOKAWA)の人気特撮映画シリーズです。

平成になって久しぶりに復活し、立て続けにつくられた3つの作品は、ガメラに新しいイメージを吹き込みました。


この平成3部作は今でもSNSでファンが語り合うほどの人気ぶりなのですが、福岡ドームが出てくる『ガメラ 大怪獣空中決戦』はその第1作目。

G1」と略されることもあるこの映画の高評価が、3部作(G1・G2・G3)へと繋がっていくことになりました。(このブログでも『ガメラ 大怪獣空中決戦』を「G1」と呼ばせてもらいます)



作品のメイキングや裏側は、『平成ガメラ パーフェクション』(株式会社KADOKAWA)や、3部作の監督である金子修介さんが書かれた『ガメラ監督日記 完全版』(株式会社小学館クリエイティブ)が詳しく、このブログもたくさん参照させてもらいました。

福岡のシーン以外もエピソードが楽しかったり、技術や工夫に感心したり、物作りについて考えさせられたりする話が満載ですので、ご興味のある方はぜひご覧ください。




『ガメラ監督日記 完全版』によれば、監督をつとめた金子修介さんは、1991年の暮れに映画『ゴジラVSキングギドラ』(東宝)に足を運ばれた際に、『ゴジラVSモスラ』(東宝)の予告編をご覧になったそうです。

1年後に上映予定のこの作品にはまだ監督名が記されていなかったため、金子さんは立候補されたのですが、実現しなかったとのことで…。


でもこれがきっかけで、大映がガメラを復活させるときに金子さんに監督の依頼がきたのだとか。

金子さんはガメラを引き受けるか迷われたそうですが(ガメラ作品の復活自体が立ち消えになるかもという懸念もあったり…)、奥さんとの会話のなかで怪獣映画を撮りたいという自分の思いがはっきりして、結果ガメラ3部作を生み出すことになったとのこと。



『ゴジラVSキングギドラ』に足を運ばれたことが「G1」のきっかけになったのだとしたら、『ゴジラVSキングギドラ』にも「シーサイドももち」が登場していますので、「別冊シーサイドももち」としては運命めいたものを感じるエピソードです。



『ゴジラVSキングギドラ』はこちらの回で紹介しましたのでご覧ください。





「G1」の脚本は事前に大映が準備した検討稿が2本あったそうですが、1993年7月末に伊藤和典さんが検討稿の一部を引き継ぎつつ新たに脚本を書くことになりました。

金子さんはこの伊藤さんの脚本が「G1」を成功に導いたと仰っています。


すでに伊藤さんのプロット段階で、謎の岩礁(これがガメラ)と、五島列島の大きな鳥(ギャオス)、それぞれの物語が別々に進んでいき(映像としてはカットバックで交合に見せながら)、やがてそれらが1つに繋がるなど完成版の「G1」と同じ構想があったそうです。



この2つの物語が1つに繋がるのは、ギャオスを捕獲しようとするシーンです。


完成した「G1」では、まさに福岡ドームがその舞台となって大事な役割を担っているのですが、実はプロット段階では、関門トンネルでギャオスを捕まえることになっていたのだそうです。

当初、福岡は「G1」の舞台ではなかったかもしれないのですね…。


(福岡市史編さん室撮影)
現在のドーム。ネーミングライツで「みずほPayPayドーム福岡」になりましたので、
看板も新しくなっています。
ちょうどこの角度でガメラはドームに現れます。



これが福岡ドームに変わったのは、大映側からのオファーでした。

ダイエーとのタイアップを企画するために、ダイエーホークスの新しいフランチャイズ球場を登場させたい、さらには怪獣映画の客入りが良い福岡でガメラの復活を勢いづけたいという意図があったそうなのです(大映とダイエーは名前は同じですが特に関係はない会社です)。


これによって、ギャオスの捕獲シーンが関門トンネルから福岡ドームに変わることになりました。



こうした変更を経ながら、1993年11月に伊藤さんの脚本の第1稿があがります。


大映が用意した2本の検討稿は、これまでのガメラのイメージを踏襲して子どもとガメラとの関係を強く押し出した物語になっていたのですが、金子さんいわく、この伊藤さんの脚本はハードSF。

これまでにないガメラのイメージです。


これを読んだ金子さんは身体中が熱くなり、やらなくてはいけない映画だと決意させられたというほどだったとか(この第1稿は『平成ガメラ パーフェクション』で全文を読むことができます。検討稿の1本もあわせて掲載されています。ちなみにもう1つの検討稿は福岡が最終決戦の場だったそうです)。



つづいて第2稿、第3稿と手直しされていきました(なお、監督や演者によって撮影現場で改められたセリフもあったとのこと)。


ただこの脚本では製作費が15億円かかるといわれたそうで…。

製作予算である5億円(のちに増資されて6億円)まで切り詰めなければならなくなりました。


とはいえ、6億でも大映にとっては社運をかけた大事業。

失敗が許されない状況だったのだとか。


平成ガメラ パーフェクション』に載っている樋口真嗣さん(特技監督)がまとめられた「ガメラ特撮に関する諸問題」(1994年1月5日)によれば、予算を減らすために福岡のシーンを縮小することも検討されていたそうです。

ガメラの出現場所を変えるという案もあったようで、その場合、ガメラは北九州市の工業地帯に出現して、福岡ドームでの捕獲に失敗したギャオスとそこで戦うことが想定されていました。


こうした改稿や予算削減をくぐり抜けて、無事にガメラとギャオスが揃って福岡を襲ってくれる(?)ことになりました




福岡ドームでのロケハンがおこなわれたのが、1994年1月。


ずいぶん寒かったそうで、福岡に着くなり、まずはラーメンとなったのだとか。

(冬に福岡に来られた方が意外に寒いと驚かれるのはあるあるです…)

その寒いなかで、福岡ドームをぐるぐるまわってアングルを決めていったそうです(特に「シーサイドももち」は風が強くて余計に寒く感じますから、ご苦労をお察しします…)。


ロケハンは最少人数であれば、本編班の監督である金子さんと、特撮班の監督である樋口さん、それにカメラマンや助監督などをあわせた6人、多いときになれば照明・美術・合成などのスタッフも加わって20人に及んだとのこと。


絵コンテを描きためたのち、撮影がクランクインしたのが、本編班は1994年6月21日(場所は伊豆)、特撮班は24日からでした。

撮了は本編班が8月15日、特撮班は10月(特殊美術担当の三池敏夫さんの記録では、特殊美術のオールアップは10月10日とのこと)。

特撮班はこれまでにないセットの組み方などのために時間がかかり、ご苦労があったそうです。


最終的に映画が完成したのは1994年12月15日でした。




さて、福岡での撮影は1994年8月6~11日におこなわれています。


「G1」での福岡のファーストシーンは福岡市動物園です。

メインキャストの1人、長峰(中山忍さん)の登場シーンでもあります。


長峰は福岡市動物園で働いていて、五島列島の姫神島で見つかった大きな鳥の雛(これがギャオス)の調査にあたっていた九大教授の教え子。

この恩師が島で行方不明になったことで、ギャオスの捕獲作戦に巻き込まれていきます。


このシーンで長峰は、白衣を着て園内の鳥舎の前で鳥の観察記録を書いています

ただ、これが何の鳥かの説明は特にないまま映画は進んでいきます。


ストーリーにこの鳥は関係ないのですが、場所が福岡市動物園ですから気になって調べてみました


姿からすると、この鳥はアンデスコンドルのようです。


そう思って「G1」を見ていると、この後、長峰が自分にかかってきた電話に出るために事務室のデスクに戻った際(おそらくは恩師からの最後の電話なのですが、電話は無言で切れてしまいます)、長峰の机には「アンデスコンドル」の飼育録が置いてありました

今回はじめて気づいたのですが、こんな細かな小道具にまで気を配って撮影されているのかと感心しきりでした。

(ちなみに、長峰に電話を取りつぐ同僚は金子さんにガメラの監督を引き受けるきっかけをつくった金子さんの実の奥さま、新藤奈々子さんが演じられています)



ロケ地となった福岡市動物園が開園したのは1933年です。

ただ、開園時は今とは場所が違っていて、福岡市の東公園にありました。

戦争による閉園を経て、現在の場所(「G1」が撮影された場所)に移ったのは1953年のことでした。


「G1」に出演したアンデスコンドルは、トサカがあって首回りも赤いのでオスのはずです。

そうすると、おそらくはこれは「はやと」だろうと思います。


アンデスコンドルは大人になるのに6年ほどかかるそうなのですが、「はやと」は1988年7月14日生まれですので、撮影時はちょうど満6歳、大人になったばかりで若々しいころです。

※福岡市動物園のYouTubeにも動画があがっています。



ちなみに福岡市動物園には、「はやと」と一緒に「きりこ」というアンデスコンドルのメスも長く暮らしていたのですが、残念なことに2021年に8月30日に亡くなってしまいました。

「きりこ」は1972年6月2日に博商会(福岡市博多区の中洲・川端の連合組織)から寄贈された1羽ですので、昭和・平成・令和と3時代を生きたことになります(コンドルの寿命は50~70年らしいです)。


こちらが「きりこ」。


長峰を演じた中山忍さんと共演した「はやと」は、今も元気に福岡市動物園で暮らしていて、その姿を見ることができます




ところで、このころの福岡市動物園は、1989年開催のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の会場で飼われていたアジア太平洋諸国の鳥147羽の寄贈を受けていて、放鳥舎を新築したばかりでした(この放鳥舎は今もあります)。

珍しいパプアニューギニアの「アカカザリフウチョウ(極楽鳥)」や、よかトピアで関係を深めたシンガポールの「ジュロンバードパーク」から譲り受けた大型の飛べない「ヒクイドリ」もいて、数ある鳥たちのなかでなぜアンデスコンドルが「G1」の撮影に抜擢されたのかは不明なのです。

アンデスコンドルが羽根を広げれば3メートルにも達し、飛べる鳥のなかでは世界最大級で肉食でもあることが、ギャオスと重ねられたのかもしれません(ちなみに「はやと」はおとなしい性格だそうです)。



長峰が福岡市動物園でどういう仕事をしていたかは、監督の金子さんいわく、長峰を演じた中山忍さんの年齢が脚本で想定していたよりも若かったため、あえてぼかしたそうです。


福岡市動物園50周年記念誌』によると、撮影時の福岡市動物園のスタッフは次の通り。


【1994年の動物園のスタッフ】

動植物園部長 1名

動物園長 1名

庶務係 6名(うち1名は嘱託):諸事務・広報企画・連絡調整を担当

管理係 9名:園内の維持管理を担当

飼育係 20名:動物の観察・飼育日記への記録、給餌、学校教育との連携を担当

動物衛生係 2名:獣医師で動物の健康管理・診療を担当


長峰は白衣を着ていることからすると一見、動物衛生係(獣医師)のようでもあるのですが、飼育記録をつけていることから飼育係とも思えます。

このあたりがぼかしてあるということなのでしょうね。




さて、その長峰は恩師の行方不明を受けて、長崎県警の大迫(螢雪次朗さん)と一緒に姫神島に向い、そこで3羽のギャオスを見つけます。


実はこれ、先ほどの製作費の節減のために、脚本では5羽だったのを3羽に減らしたのだそうです。

脚本では5羽が福岡ドームに向かい、途中1羽の死亡を経て、4羽がドームに降り立つはずでした。



この3羽のギャオスを捕獲する方法を考えるように、環境庁審議官の斎藤(本田博太郎さん)から告げられた長峰と大迫は頭を悩ますことになります。

夜中、2人でコンビニのおにぎりやパンで食事を取りながら考え込むなか、大迫がコンビニで買ってきたばかりのスポーツ新聞の1面を見て、開閉式の屋根を持つ福岡ドームにギャオスを誘い込んで閉じ込めることを思いつきます


大迫が見たスポーツ紙は、福岡ではお馴染みの『九州スポーツ』(『東スポ』グループ)でした。

見出しにはこのような文字が躍り、ダイエーホークスの秋山幸二選手のバッティング写真が大きく載っています。


福岡ドーム天井直撃!秋山

首位奪還 史上初 ウッソー!はね返ってスタンド入り

奇跡の一打で単独首位


秋山選手が西武ライオンズからホークスへ移籍したのは、まさに「G1」を撮影した1994年。

この年は129試合に出場して、120安打・26本塁打、打率は2割5分4厘で盗塁が26、外野手としてゴールデングラブ賞を受賞されました。


ホークスがまだ現在のような常勝球団ではなかったころ、すでに球界のスターだった秋山選手には、プレーでも意識の面でもこれからホークスを優勝に向けて牽引してくれるはずという期待が集まっていました。

「G1」の『九スポ』の見出しのようなことは実際にはありませんでしたが、この役が似合う選手となれば秋山さんしかいないというのは納得です。



一方で、この『九スポ』紙面の端に目を移すと、「マドンナ再」という文字があります。

「再」の次の文字は紙が折れていてはっきりしないのですが、「婚」のように見えます。


歌手のマドンナは1989年に俳優のショーン・ペンと離婚していますので、それをふまえて、スポーツ紙らしくするために芸能ネタとして入れたものでしょうか(実際にはマドンナが映画監督のガイ・リッチーと再婚するのは2000年ですので、だいぶん先の話です)。


ただ、こういうフィクションにわざわざマドンナを選んだのは、「G1」の撮影時期と舞台が福岡であることとが無関係ではないかもしれません。


マドンナは人気絶頂の1993年(「G1」撮影前年)に、東京ドームと福岡ドームでコンサートをおこなっているからです。

福岡公演は12月7~9日の3日間、なかでも12月8日の公演はテレビ放映用に撮影され、音源はCDで発売されています。


マドンナは福岡ドームが東京ドームとならぶ日本最大級のコンサート会場であることを広めたミュージシャンの1人。

これも実は大迫がギャオスの「鳥かご」として福岡ドームを思いつく場面にふさわしい人選ではないかと思っています。




さてこの『九スポ』、日付は不鮮明ながら6月10日のように見えます。


これより後のシーンでギャオスの捕獲が6月10日の夜であることが分かるのですが、ということは、大迫と長峰が福岡ドームでの捕獲を思いついたその日に作戦が実行されたことになります。

(この日、ホークスのゲームが予定されていなかったのか気になるところですが…。閣議での決定なので仕方ないのか…)



「G1」ではここで夕暮れの福岡ドームが映ります。

スクリーンに向かって下手(左側、方角だと西側)に屋根を開けたドームの映像です。


ところが次のカットでは、ドームの南側(現在では「MARK IS 福岡ももち」が立つ側。当時はバス乗り場や駐車場でした)から撮った映像になっていて、屋根がさっきとは反対のスクリーンの上手(右側、方角だと東側)に向かって開いています。



どちらが本物かというと、画面に向かって下手(左側、方角だと西側)に開いている方です。


(福岡市史編さん室撮影)
シーホーク側(西側)に向かって屋根が開いているドーム。


「G1」では、これをあえて画像処理で反転させ、逆側に屋根を開口させたのだそうです。

『平成ガメラ パーフェクション』で当時の撮影風景の写真を見ると、あとから反転させることをふまえて、バス乗り場で交通規制をする警察の「緊急により 車両進入 駐車禁止 福岡県警察署」の立て看板も、あらかじめ左右を反転させた文字で書かれています。


となると、最初のドームが反転されていないのはなぜかとなりますが、整合的に考えれば南側(バス乗り場)ではなく、北側(海側)から撮ったというテイなのかもしれません(実際に北側から撮ると、都市高速や松原が映り込んで違う画になってしまいます)。



なぜわざわざ反転させる必要があったかについては、「福岡港」から上陸したガメラとの位置関係を明瞭にするためだったそうです(『平成ガメラ パーフェクション』)。

主役(ガメラ)は上手から登場するものだとも書かれていて、スクリーンの上手(右側、方角だと東側)からガメラを登場させるための演出でした。



ただ、『平成ゴジラ大全 1984~1995』にはこう解説されています。


実は大映の「G1」と同時期に、東宝の『ゴジラVSスペースゴジラ』も撮影が進んでいました。

しかも舞台は同じ福岡の「シーサイドももち」。

ドームの西側にある福岡タワーが主要な場所になっていました。



大映のガメラ(「G1」)は東宝洋画系の映画館で1995年3月(春休み)の上映、一方の東宝の生え抜きスターのゴジラは東宝邦画系で1994年12月(お正月)の上映予定でした。


そのためにあらかじめ「G1」は福岡タワーを撮さないこと、『ゴジラVSスペースゴジラ』は福岡ドームを映さないことが、両製作サイドで約束されていたのだそうです。



もし実際の福岡ドームの通りに、スクリーン下手(左側・西側)に開口した福岡ドームで「G1」の物語を進行させれば、おのずとその背後に福岡タワーが映り込んでしまうでしょう(それを画像処理で消したら消したで、タワーがないじゃないかと悪目立ちします…)。

ところがドームを反転させれば、その心配はなくなります。


これがガメラをスクリーンの上手(右側)から登場させたことによる副産物的なものなのか、あるいは最初から福岡タワーを避けるのが目的だったのかは分かりませんが、完成した「G1」では一切福岡タワー方面は映っておらず、ちゃんと東宝との約束が果たされることになりました。


「シーサイドももち」はドームがある方が中央区地行浜、福岡タワーがある方が早良区百道浜になっていて、区をまたぎながらも一体として開発することがコンセプトになっている場所なのですが、結果として、ガメラは地行浜を、ゴジラは百道浜を分担して壊すことになりました

(「別冊シーサイドももち」的にはガメラと福岡タワーの共演も見たかったのですけど…残念)


ちなみに「G1」の撮影時にはすでに福岡ドームの隣でホテル「シーホーク」の建設が始まっていましたが、建設途中であることからこちらも意図的に画面からははずされたそうです。




さて、映画ではいよいよ福岡ドームでのギャオス捕獲作戦が実行され、自衛隊のヘリが3羽のギャオスを五島列島から福岡ドームまで誘導してきます。


球場内に置かれた作戦本部と、ギャオスを誘導するヘリとが無線で交信するところは、ホークスファンの推しポイント。

ヘリの「ハーキュリー1(ワン)」からの連絡に、本部は「こちらハリーホーク」と応えています。

「ハリーホーク」はホークスのマスコットキャラクター、「ハーキュリー」はハリーと一緒にホークスに入団したライバルの名前で、「G1」製作スタッフの遊び心と福岡へのサービスが感じられるシーンです。



ダイエーホークスのキャラクターは「ホーマーホーク」だったのですが、「G1」撮影の前年の1993年に球場を市内の平和台球場から福岡ドームに移した際、「ホーマーホーク」の弟で新登場の「ハリーホーク」と交替したばかりでした。


先ほどの『九スポ』紙面の秋山選手といい、球団と球場の新しい姿がそれとなく映画に盛り込まれています。

(さすがにダイエーホークスとそのキャラクターが鳥であることと、ギャオスはかかってないと思いますが…)




こうしてドームに舞い降りることになる3羽のギャオス。

一方、米森(伊原剛志さん)がドームに現れ、黒潮にのって太平洋を移動していた環礁が推定60メートル以上の巨大生物(ガメラ)であり、一直線に福岡ドームへ向かっていることをはじめて長峰らに伝えます。



実はこの黒潮にのって太平洋を移動していたガメラが博多湾へやってくるという設定には、ほかならぬ監督の金子さん自身がおかしな話だと仰っています。


太平洋から一直線に福岡ドームには来れず、わざわざ途中で関門海峡を通ってくる必要があるというのです。

しかも、ガメラがドームを目指しているとなぜ米森に分かったのかと…。


ただし、ここまでストーリーは長峰の五島でのギャオスの物語と、米森の太平洋でのガメラの物語とが別々に進行してきていますので、観客にとっては“米森が長峰のところにキター!” “話が1個になったー”という方に目が行ってしまい、このおかしな設定を詮索する心理にはならず、矛盾を指摘した人はこれまでいないと金子さんは『ガメラ監督日記 完全版』なかで書かれています。



なるほど、確かに仰る通りですよね。


ところが、こと当時の福岡の観客に限れば、おそらくこれにあまり疑問を抱かなかったのではないかとも思います。



というのも、当時の福岡の人は太平洋から誰かが福岡に来るのは慣れているからです。


1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)のマスコットキャラクター、「太平くん」と「洋子ちゃん」は手塚治虫さんの作品ですが、そのコンセプトは、2人は子どもながら「であい」を求めてカヌーで太平洋から黒潮にのって福岡までやって来た、というものでした。


これが無謀でないことは、よかトピアの開催を記念して、太平洋のミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島から福岡までの5000キロを、羅針盤や海図を使わずに太陽・星・雲・波を頼りに人力で航海したヤップカヌーが証明しました(安全のために伴走の船はつきました)。

このときのクルーは、博多どんたくのパレードに参加したり、よかトピアの会期中にふたたび来福してイベントでショッピングセンターをまわったりと、福岡ではすっかり有名人になりました。(そういえば、このショッピングセンターもダイエーでした)


また、よかトピアの会期中には、ニュージーランドのオークランド市から博多湾を目指して太平洋を縦断(1万200キロ)する国際ヨットレースも開かれ、37艇が競ったりもしています。


よかトピアの会場では太平洋の国々が引っ越してきたかのように、現地のものや建物がならび、それらをつくったり、イベントに出演したりするために、たくさんのアジア太平洋の人びとが福岡を訪れました。



よかトピアのときに散々アジア太平洋と福岡とのつながりを聞かされ、実際それを目撃してきた福岡の人びとにとっては、たとえそれがガメラであっても、むしろ当然のマインドがすでにあったのです。

きっと、もし脚本の構想段階にあった関門トンネルや北九州の工業地帯までしかガメラが来なかったとしたら、福岡の人はそこまで来てなぜこっちに寄らないと不思議に思ったくらいでしょう。





さて米森の言葉を裏付けるように、福岡の沖合約12キロの地点で、正体不明の物体が速度約50ノット(時速90キロ以上)でドームを目指して直進していることが確認されました。

これがガメラなわけですが、海からガメラが浮上したのは石油タンクが並ぶ場所でした。

ここでドームから逃げ出したギャオスを一撃でたたき落とし、ドームへ向かいます。


さて、ガメラが現れたこの場所はどこかとなると、福岡市内で石油タンクが並ぶのは西公園近くの荒津しかありません



戦後、博多湾岸では埋め立て地に点在する石油タンクと、一般の商船・漁船が出入りする港湾施設とを分けることが防災上の課題となっていました。

ところが、財政上の理由でなかなか進んでいませんでした。


そうしたなかで1954年に、日本石油が福岡市に対して荒津の埋め立て後の土地約3万㎡を借りることを申請すると、福岡市はあらかじめこの土地を同社に売却してそれで工費をまかない、1958年までに約20万㎡の埋め立てを進めました。

その後、1970年の完了まで順次埋め立てが続き、現在この場所は各社の貯油タンクが集まる石油中継基地になって、戦後の懸念が解消されました。





福岡タワーの展望室から石油中継基地方向を見るとこういう景色です。

奥に荒津の石油中継基地、その手前にドームが見えます(ドームの手前にある大きな建物は「ヒルトン福岡シーホークホテル」)。


(福岡市史編さん室撮影)


もう少しアップにするとこんな感じ。

(福岡市史編さん室撮影)


つまり、石油タンクを目の前にガメラが浮上する場所は、西公園近くの荒津しかないことになります。


このシーンでは防波堤のすぐ外の海中にガメラが現れるのですが、石油中継基地のそばには博多港の西防波堤があって、この点でも一致します。



ガメラはそこで上陸し、石油タンクが炎をあげるなかをドームへ向かって歩いていきます。


ここからドームまでは2キロ弱。

ドームの姿はもう見えています。

全長60メートル以上のガメラの歩幅では、さほど時間をかけずに迷わずに行けるはずです。



ドームの北側は目の前が海ですから、そこで浮上すれば良かったのではとも思いますが、そうすると福岡タワーや建設中のシーホークが映り込む可能性も高いですし、石油タンクの炎のなかをまるで花道を歩くように進む方がやはり迫力と緊張感がありますので、これは演出上仕方ないことでしょう。

(伊藤さんの第1稿ではガメラはそこから高速道路を破壊して、樋井川沿いにドームに接近する設定でしたが、これは完成版では採用されませんでした)


それより、実際の博多湾は水深が浅いのです…。

湾の外側は最大23メートル程度はあるそうですが、湾内の平均は10メートル、陸に近い部分は5メートル以下です。

そのため大きな船が通る航路が2本掘られているほどです(中央航路:箱崎・東浜・中央・博多・須崎/東航路:アイランドシティ方向)。


全長60メートル超えの巨体で、これまで太平洋の水深3000メートルを泳いできたガメラはきっとその浅さに困惑したのではないかと思います…。



ところが、映画ではガメラはまず長浜の屋台街に向かいます。

これはやや遠回りになるのですが、石油タンクから続く花道の延長と言えるでしょうか。



次の場面では、狭い橋いっぱいに人びとが逃げています。

その橋の奥、川の遠い向こう側を巨大なガメラが横切ります。

人びとはスクリーンの下手(左側)から上手(右側)へ逃げ、ガメラはそれとは反対の方向に歩いています。


川沿いのビルの様子から、この川は那珂川、人びとが逃げる橋はそこにかかる中洲懸橋(なかすかけはし)だと分かります。

撮影時の橋は今もあって、これは1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の際にかけ替えられたものです。



こちらが中洲懸橋。

(福岡市史編さん室撮影)


映画ではこういうアングルもありました。

(福岡市史編さん室撮影)



橋のたもとにある案内板。

(福岡市史編さん室撮影)


ガメラが歩くシーンはこんなイメージです。

(個人蔵のフィギュアを合成)



そうすると、人びとは西(天神方向)から東(現在のキャナルシティ側)へ逃げ、ガメラはその反対に福岡の東区方面から西へと向かっていることになります。



これを現実の位置関係のなかで見れば、ガメラはいったんドームを目の前にしながら、荒津から逆方向の東に進み(途中で長浜の屋台街を通り)、反対だと気づいて戻っている(春吉の中洲懸橋からこれが見える)ことに…。


(地理院地図Vectorを基に作成)



もちろん、太平洋からまっすぐドームに向かってきたガメラが方向を見失う訳はないでしょうから、映画の演出上は、石油中継基地が実際よりもっと東側に想定されていることになりそうです。

浮上して2キロ先、もうドームが見えているのでは、復活したガメラの登場として花道が短すぎるということなのでしょうね。



この間、映画では、「福岡港」に怪獣が現れたというニュース速報を日本テレビのスタジオで木村優子アナウンサー(ご本人)が読み上げられ、テレビのテロップには「博多湾」沿岸の西区・中央区・早良区・博多区に避難勧告が出されたことが流れています。


東区に避難勧告が出ていないことは、中洲懸橋を逃げる人びとが中央区側から東区方面に向かっていることとも合いますし、ガメラが東区方向から博多区を通過して、ドームがあるシーサイドももち(中央区・早良区)方面に歩いていることとも合致しています。



こうして、石油中継基地を実際より東に想定することでガメラの花道を延ばし、博多湾岸を東から西へ、中洲や長浜ラーメンなどで存分に福岡を紹介しながらドームへと向かったという演出になるのでしょう。




ところで、川の向こうにガメラを見ながら、手前の中洲懸橋を人びとが逃げるシーンをどこから撮ったかといえば、福岡の方々ならすぐに分かる通り、隣にかかっている春吉橋(はるよしばし)だと思われます。


(福岡市史編さん室撮影)
左が中洲懸橋、右が春吉橋


撮影時の春吉橋は2013年からかけ替え事業がはじまり、2022年に新しい春吉橋が開通しましたので、今はもう残っていません。

このかけ替えは、新しくなった橋の橋名プレートの文字をタモリさんがお書きになったことでも話題となりましたので、ご存知の方が多いのではないでしょうか。

現在は、かけ替え時の仮橋もそのまま残されて広い歩道となり、にぎわい空間としてイベントに利用されています。


(福岡市史編さん室撮影)
タモリさんが揮毫された春吉橋のプレート


(福岡市史編さん室撮影)
写真手前がにぎわい空間に利用されているかけ替え時の仮橋部分


とはいえ、新しい橋も場所は同じですので、ここに立つと変わっていない中洲懸橋の向こうを横切っていくガメラの姿を想像できる「G1」の聖地になっています。




「別冊シーサイドももち」的に気にかかるのは、先ほどの木村優子さんのアナウンス。

「福岡港」と仰っているのですが、正しくは「博多港」なのです…。


博多港は1899年に関税法によって開港の指定を受けて国際貿易港として歩みはじめるのですが(明治時代のことです)、戦後には1951年に重要港湾、1990年に特定重要港湾となった、福岡市内の博多湾岸に広がる大きな港。

「シーサイドももち」になった埋め立て地も、この博多港の長年の港湾計画のなかで誕生しました。


この第1報のアナウンスの部分、実は伊藤さんの第1稿には「福岡湾」と書いてありました(これも正しくは「博多湾」)。

これを完成版では「福岡湾」を「福岡港」と改めたうえで、続く避難を伝えるテロップでは「博多湾」と正しく表記しています

さらには事件後に映る電車内の週刊誌の吊り広告には、こちらは正しく「博多港」と書かれているのです。



リアルな演出で有名な平成ガメラシリーズのことですから、何か理由があるのかもしれません。

もし「博多港」が正しいことを知ったうえで、緊急事態を伝えるニュース原稿の混乱ぶりを「福岡港」と間違うことで表したとしたら、恐るべき繊細な演出です。

真相はどうなのでしょう。





こうしてようやく福岡ドームにたどり着いたガメラは、ドーム内のギャオスを狙って、東向きに開いたまま閉じ切れていない屋根を壊すことになります。

ギャオスは東の空に逃げ、ガメラが円盤のように空中に浮かんで回転しながらそれを追いかけていくことで、福岡のシーンは終わりました。

(個人蔵のフィギュアを合成)




このあと物語は瀬戸内から東日本に向かって展開していくのですが、ドームを反転させて屋根の開口部分を東に向けたことで、ガメラが屋根を壊すところから、ギャオスが逃げる方向、ガメラがそれを追いかけるシーンと、確かに導線が整理されて見やすくなっています。



驚くのはドームのシーンでは実際の球場内の映像とあわせて、ミニチュアの模型や写真のかきわりを使った特撮も混ぜられていることです。


たとえば、手前に緑色の座席とフェンスの小さな模型をカメラに写る部分だけ作って置き、その向こうにはロケのときに撮影した写真を引き伸ばしてパネルに貼り付けたかきわりを立てて、球場の広い空間や遠近感を出しています

言われないと模型だとはまったく気づかず、実際の座席から撮ったように見える精巧さです。


ガメラが「福岡港」に浮上するシーンは、このためにつくられたセットプールで撮影されました。

ガメラが水面下に沈むようにそこだけプールを深くし、浮上する際には液体窒素で白煙をつくり迫力を加えてあります。

海辺のガメラがたたき落とすヘリや、荒津の石油タンクもミニチュアで撮られています。


このギャオスをたたき落とすシーン、16回目でようやくOKになったそうです。

ガメラの中に入っておられたのは、当時佐藤浩市さんの付き人もされていた真鍋尚晃さんなのですが、途中で酸欠のために意識が飛び、撮影が中止になったほどの過酷なシーンだったとか…。


ガメラがわずかに開いた屋根からドーム内のギャオスを覗きこむシーンでは、開口した屋根の部分だけミニチュアをつくり、そこにガメラの首だけを覗かせ(撮影スタッフが棒の先に首をつけ、かかげています)、屋根の内側から撮られています。

さらにはそこにあらかじめ切り込みを入れておいて、ガメラが屋根を壊しやすいようにもなっていました。


ミニチュア製作を担当した佐藤祐一さんは、途中から『ゴジラVSスペースゴジラ』の仕事も並行していたらしく、両作品とも舞台が同じ福岡なのだから、一緒につくって半分ずつ使えばいいのにと思ったほど模型製作は大変だったそうです…。


こうした福岡の特撮シーンは、福岡ロケのあと1994年9月に東京のスタジオで撮影されました。


「G1」は合成も使っているのですが、当時はまだデジタル合成が高価だったため、限られたシーンにしか使われず、ほかはすべてフィルム合成が使われていることも驚きです。(むしろ当時はそちらの方に信頼があり、職人さんも優れた技術をお持ちだったそうです。ほんと尊敬しかない技です…)

ちなみに「G1」での貴重なデジタル合成の1つは、福岡ドームでギャオスに逃げられた際、ガメラが空中に浮き、円盤のように回転しながらそれを追いかけるシーン

実はとてもお金がかかっている場面なのだそうです(NHKエンタープラズが担当)。




映画のなかでは、翌日の新聞にこのような見出しが踊りました。

福岡市民、恐怖の一夜

ドームに怪獣出現

被害甚大、死傷者多数

行方不明の怪獣追跡

怪獣はプルトニウム輸送船と接触していた!





また東京の電車でもこのような週刊誌の吊り広告が怪獣(ガメラ)の出現を報じています。

海から怪獣浮上!

福岡襲撃

福岡ドーム崩壊!!

博多港コンビナート炎上!!

謎の空飛ぶ巨大怪獣出現!!

博多港の海底から怪獣浮上…



福岡の被害状況を知りたいところですが、これらの見出しに具体的な表現はありません。

これは具体的な数字などを出すと、観客がガメラに感情移入しにくくなるため、意図的にそうしているのだそうです。


余談ですが、この週刊誌、「地価底値、低金利で新築一戸建ては今が買いだ!」という見出しもガメラと一緒に並んでいて、バブル崩壊後の時代を感じます。




1995年3月11日に封切られた「G1」は、結果、配給収入は5億2000万円、動員は80万人となりました(同時期に撮られたゴジラは配給収入16億5000万円ですが、もとの予算もケタが違うそうです)。

DVDなどの映像化も含め何とか黒字となった「G1」でしたが、それでも次に期待を抱かせるのに十分な成果と評価され、すぐに「G2」(『ガメラ2 レギオン襲来』1996年7月13日公開)の製作が動き出すことになりました。


「G1」の高評価がなければ、今も語り継がれる平成ガメラ3部作は誕生しなかった訳ですから、そのストーリー展開やビジュアルの面で福岡も少しは役に立ったということではないでしょうか。


なかでも福岡ドームの存在感が際立っています。

開閉式屋根で大きな鳥を捕まえるという奇想天外なストーリーは、福岡ドームしか引き受けられないものです。

ギャオスがグラウンドに舞い降りたあと、ゆっくりと閉まっていく重厚かつダイナミックな屋根の動きは、映画を観ている人に緊張を与え、物語をより説得力あるものにしてくれます。


「G1」でガメラとギャオスとの最終決戦の場は東京タワーでした。

しかしこれも脚本家の伊藤さんの案では違う場所で、東京の「大川端リバーシティ21」(ウォーターフロントの高層マンション街。1989年に入居開始)だったのだそうです。


特撮監督の樋口さんはこれに対して、「役者としてまだ若い」と言われたそうで、特別感やわかりやすさのある東京タワーに変更になったのだとか。


樋口さんの表現を借りれば、福岡ドームは1993年にデビューしたばかりの新人役者

ただ、その存在はデビュー前からすでに全国から注目をあびていました。


福岡ドームの役どころは前半で観客をつかみ、後半に向けて物語を方向付けることでした。

「よッ! 待ってました!」と迎えられる重鎮役者の東京タワーに対して、新人役者らしい華やかさと、若々しくこれまで見たことがない演技でガメラの復活作を十分盛り立てていると思います。


機会がありましたら、ぜひ『ガメラ 大怪獣空中決戦』でデビューしたてのころの福岡ドームの姿をご覧ください。


そして時は経って、新人だった福岡ドームもすでに30年を超え、誰もが知る福岡の顔となりました。

その歴史には数々の逸話がありますので、これはまた今度に。






【参考資料】

DVD『ガメラ 大怪獣空中決戦』(株式会社KADOKAWA、2016年)

・『平成ガメラ パーフェクション』(電撃ホビーマガジン編集部 編集、アスキー・メディアワークス プロデュース、株式会社KADOKAWA 発行、2014年)

・金子修介『ガメラ監督日記 完全版』(株式会社小学館クリエイティブ 発行、2024年)

・白石雅彦『平成ゴジラ大全 1984~1995』(株式会社双葉社 発行、2003年)

・『博多港史』(福岡市港湾局 編集発行、2000年)

・『The 50th anniversary Fukuoka zoo 福岡市動物園50周年記念誌』(福岡市動物園、2003年)

・ウェブサイト
 ・福岡市動物園 https://zoo.city.fukuoka.lg.jp/zoo/
 ・博多港プロフィール https://www.city.fukuoka.lg.jp/kowan/hakata-port/01/profile.html
 ・博多港開発株式会社 http://www.port-hakata.co.jp/



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Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル 



※ 一部文章を修正しました(2024.11.2)